2007年に劇団「マームとジプシー」を旗揚げして以来、現代演劇を更新し続けている演劇作家の藤田貴大さん。

 約2年ぶりの新作「Light house」を発表する藤田さんに、演劇と出合ったきっかけ、新作のモチーフになっている沖縄への想い、そして今、演劇という営みを続けることの意義について伺いました。


「演劇と出会ったことによって、やっと世界に色がついた」

――藤田さんは小学生の頃から演劇をされていると伺いました。演劇を始まるきっかけは何だったんでしょう?

 正式に劇団に入ったのが10歳になるときなんですけど、勉強もできないし、運動神経もなくて、学校で取り柄がなかったんですよ。ただ、幼稚園の学芸会はいつも主役で、小さい頃から母親から「演劇」って言葉をずっと聞いていて。母親は東京にいた頃に演劇をよく観てたらしくて、「小劇場ってものがある」ってことを小さい頃から食卓で言われていたんです。それで、小3のときにクラスで劇団を作るんですよ。

――小3って、かなり早いですね。

 そうそう。3人ぐらいなんですけど、“ありんこクラブ”って放課後の劇団を作って(笑)。誰かが転校するときとかに、担任の先生から「じゃあ藤田君、何かやって」と言われて。

 あれは本当に楽しかったですね。人前で何かやるのは好きだったんですけど、ちょうどその時期に、初めて観劇ってものをしたんです。地元の高校の演劇部の作品で、ナチスの話だったから、めちゃくちゃ暗い話だったんですけど。そこで「貴大は観劇が好きらしい」ってことになって、母親と一緒に札幌に行って、劇団四季を観たんです。

――藤田さんの地元である北海道の伊達からだと、札幌まで2時間近くかかるから、結構な遠出ですよね?

 そのときやってた演目は『オペラ座の怪人』で、母親は退屈そうにしてたんですけど、めちゃくちゃ感動しちゃって。3時間とかあるのに、全然飽きずに観てたんです。

 小学生のときって、習い事をするムードってあるじゃないですか。習字を習ってたり、スイミングを習ってたり、サッカー少年団に入ってたり。僕はそういうコミュニティに入れない感じだったから、親も「習い事をやらせたい」って模索してくれてたんだと思うんですよね。

 だから、札幌で劇団四季を観たあと、母親と父親が「演劇が好きらしい」みたいなことを話してたなって、最近思い出したんですよね。それで、10歳のときに高校の演劇部の先生が劇団を作ることになって、母親が頼み込んで、子役として入れてもらうことになったんです。

――客席から観劇したところから、自分で演劇をやる側になって気づいたことはありましたか?

 演劇に出会ってなかったら、人のことがわからないままだっただろうなと思うんです。人の感情がわからなくて、ほとんどコミュニケーションが取れてなかった感じがあって。でも、初めて台本をもらったとき――台本って上の方が空いてるじゃないですか。劇団に入った初日に、「自分の台詞をおぼえるとかはどうでもいいから、次の人がこの台詞を言っているときに何を考えているのか、そこに書け」って言われたんです。

 それをやっていくと、相手がどうしてその発言をしたのか、わかるようになってきて。表現としてどうこうっていうよりもまず、演劇と出会ったことによって、やっと世界に色がついたような気がしたんです。

カフェに通うことで自分のやりたい方向性が見えた

――10歳から演劇を始めた藤田さんは、高校を卒業すると上京して、演劇コースのある桜美林大学に入学されています。上京して触れた演劇に、どんな印象を抱きましたか?

 地元で演劇をやっていたときは、「寝てる最中も演劇のことを考えろ」と言われていて、とにかく体を鍛えて、発声練習をするっていう、結構バリバリな感じだったんです。でも、高校3年生のときに平田オリザさんの演劇をVHSで観て、結構衝撃を受けて。上京して、まずオリザさんの演出助手をしたんですけど、「こういうふうに整頓された世界ってあるんだな」と思ったんです。

 僕が地元でやってたのはミュージカルだったってこともあるんですけど、オリザさんの作品は普通にしゃべってる感じの発声で、声がちょっと大きい人がいると「そんな大きい声出すなよ」って鋭い感じで言われてて。逆に怖いなと思って、最初のうちはずっと、高校の演劇部の影山先生に電話してましたね(笑)。

――それまで自分がやっていた演劇と違いすぎて、混乱したわけですね。

 演出助手になって最初の一週間で、全員の台詞をおぼえたんです。最初は何が書かれてるのかわからなかったところも、段々その裏がわかってきて、「この台詞すげえな」って思うようになって。ただ、自分が田舎者だからってのもあると思うんですけど、整頓された静かな演劇っていうものに対して物足りなさも感じていて、徐々に学校に行かなくなっちゃったんですよね。学校に行けば演劇ができる環境にあったんだけど、演劇を一生懸命やるだけが演劇なのかなって思ってた気がします。

――演劇を見るにも2時間近くかけて出かけなきゃいけなかった環境に比べると、上京してからはあちこちに劇場もあるし、演劇以外の表現に触れる機会も格段に増えますよね?

 そうなんですよね。やっぱり、「伊達では手に入らないもの」ってことが基準になってきて、音楽を聴くにしてもただタワレコに行くだけじゃなくて、もっと小さいお店にも行くようになって。家でめちゃくちゃ音楽を聴いて、小説を読んで、映画を観てましたね。

 ただ、それを繰り返しているうちに――これは最近自分の中で繋がった言葉なんですけど――いくらCDを聴いても、小説を読んでも、映画を観ても、それは素材を集めているだけで、自分の足でわかったことにはならないなと思ったんです。それってお金と時間さえあれば誰でも触れられることで、それだけやってても自分の根本的な感受性は揺れないんじゃないか、って。

――演劇をやろうと上京したあと、学生時代にしばらく演劇から離れていた時期があったと伺いました。その時期は、どんなことをして過ごしていたんでしょう?

 二十歳過ぎたあたりでカフェに行き始めるんです。

――カフェ?

 コーヒーが飲めるようになったのが20歳過ぎてからだったんですけど、「カフェで京都に行ってみよう」とか、「カフェで鳥取に行ってみよう」とか、カフェで土地を選んで出かけるようになって。それで、大学4年のときに行ったのが屋久島だったんですよ。そこに「ときどき滝がみえる」って小さなカフェがあって、屋久島に滞在してた1週間は毎日通ってるうちに、「これぐらいのことを演劇でできないかな」と思ったんですよね。

 演劇というと、劇場を借りて、スタッフさんが何人もいて、キャストも揃えて……それを大学の授業でやらされてたんですけど、そのやりかたで演劇をやろうとしても、大人のほうがうまくやれるだろうなって意識があったんですね。でも、「ときどき滝が見える」に行ったとき、それとは違うルートが演劇的に見えたんです。

――演劇という尺度からカフェという営みを見たことで、従来とは違う規模感やアプローチでやれないかと考え始めたわけですね。

 そう、自分がやりたい規模が見えてきたんですよね。演劇っていうと「劇団を構えて、専属の役者がいて……」ってことになってるけど、僕一人が母体にあれば、それで表現として成立することをやりたいと思ったんですよね。

――それがマームとジプシーという名前に繋がっている、と。

 あのときカフェで感じてたものって、部屋で小説を読んだり映画を観たりしているときには得れない感覚だったと思うんです。ゴダールの映画は何万人が観れるけど、その時間にそのカフェで過ごしている感触って、僕しか知らないわけだから、いくら話しても誰とも共有できないものかもしれなくて。

 そういうものに触れるのが“フィールドワーク”ってことだと思ってるんですけど、わざわざ足を運んで得られるものっていうのにやっと出会えたなって感じがしたんです。そのときに、やっぱり旅はしたいなと思って、マームとジプシー名前をつけたんです。

2022.02.19(土)
文=橋本倫史
写真=平松市聖