『ロングバケーション』や『HERO』がそうであったように、木村拓哉とヒロインのダンスが映画にグルーヴを生み、スウィングで躍動させることを鈴木雅之監督は確信していたように思える。

 

演じ続けてきたのは、喧嘩のできるリアルな男の子

 今、日本のラブストーリーに登場する男性像には2つの潮流がある。ひとつは少女漫画原作的な“ドS王子”とでもいうべき、圧倒的な男性性とリーダーシップで内向的なヒロインをリードする「支配する」男性像。もう一つは『逃げ恥』の津崎平匡や『おかえりモネ』の菅波先生のように、ヒロインに対して常に敬語で話し、女性性を思いやり傷つけない、アップデートされたリベラルな、「寄り添う」男性像である。

 だが、20世紀から木村拓哉が演じ続けてきたのは、そのどちらでもないのだ。山口智子や松たか子らが演じる歴代のヒロインが求めたのは、支配する男性でも寄り添う男性でもなく、自分と50−50のフェアな勝負をしてくれる、対等にバチバチと喧嘩のできるリアルな男の子だった。

『ビューティフルライフ』で常磐貴子が演じる車椅子のヒロインは、自分を崇拝するように保護しようとする男性に居心地の悪さを感じ、対等な目線で喧嘩のできる美容師の青年に惹かれていく。木村拓哉はそうしたヒロインたちに応えるように、彼女たちのスパーリングパートナーをつとめてきた。

 ヒロインたちは人生のどこかで木村拓哉と出会い、木村拓哉と戦い、そして木村拓哉から旅立っていく。木村拓哉という俳優はどこかで、自分が演じる物語の中心にいるのが本当は自分ではなく、成長し、自立していく相手役のヒロインであることを直感的に感じ取っていたのではないかと思う。

 木村拓哉の21世紀の代表作のひとつに数えられるだろう『マスカレード』シリーズにおいてもそれは同じだ。それは国家権力というマッチョな男性社会の中で生きてきた刑事と、ホテル従業員という、顧客を思いやり配慮する正反対の論理の中で生きてきた女性のバディ(相棒)フィルムである。

2021.10.07(木)
文=CDB