JICA中東・欧州部 小森 明子さん(左)と、俳優 サヘル・ローズさん(右)。
JICA中東・欧州部 小森 明子さん(左)と、俳優 サヘル・ローズさん(右)。

 JICAの協力のもと、CREA × 文春オンラインの連合企画として展開している特集「ソーシャルビジネス×ジェンダーレスがもたらす地球の未来」。

 今回は、国際的な活躍を続けている二人の女性にご登場いただき、彼女たちが直面している課題や、コロナ禍で孤立しがちな女性に対するメッセージなどを語っていただきました。


差別は国籍ではなく、未知なるものへの恐怖心から生まれる

 テレビや映画、舞台などで活躍を続けるサヘル・ローズさんは、8歳の時に養母と共に来日。時には住む家もない貧困生活を送ったこともあるが、彼女を養護施設から迎えてくれた養母の愛に包まれ、さまざまな困難を乗り越えてきた。現在は俳優活動と並行し、途上国の子どもたちへの支援活動にも力を尽くしている。

 今回は、幼少期から中東で生活することが多かったというJICA職員小森明子さんとサヘルさんが初対談。多様性の時代に日本が向き合うべき課題や、女性が社会問題に対して声を上げる困難さ、コロナ禍での孤立化などについて、同世代の二人が率直に語り合った。

サヘル・ローズさん(以下サヘル) 実は私、JICAとはご縁があって、以前私の養母がJICAの海外研修生の通訳を務めていたんですよ。それで私もJICAの通訳のテストを受けたことがあるんです。

小森明子さん(以下小森) え、そうなんですか!

サヘル そうなんです。母はもともとイランでボランティア活動に積極的に参加していたので、私も自然と、大人になったら社会のために何ができるんだろうと考えるようになったんです。

小森 ご著書にも書かれていましたが、サヘルさんにとってお母さまの存在はとても大きなものなんですね。

サヘル そうですね。私が現在のような支援活動を始めた大きなきっかけは、もちろん養母の存在や、幼少期のいろいろな出来事にあると思います。でも、私は本当に恵まれた子どもの一人だったんですよ。はたから見たら大変で苦しい経験をして、「苦しかったね」「かわいそう」って言われてしまうことが多いんですけど、でも私は決して自分をかわいそうだと思っていないし、過去をネガティブにとらえたこともないんです。

 私も母も、日本で出会った人たちに本当に支えてもらったから生きてこられた。その経験があるからこそ、人は一人では生きていけないし、特に異国の地では誰かの支えが必要なんだと知ることができました。

小森 来日当初は日本語も分からず、疎外感が強かったでしょうね。

サヘル でも、大人はもっと大変だと思うんです。母が言葉も宗教も違う国で子どもと一緒に生きていくためには、工場での重労働のような働き口しかなかった。だからといって、自分の国に帰ったところで当時は、戦争や革命で女性の地位がすごく下がってしまっていて、自由などないというのが現実だったんですよ。せめて娘には、自由に生きていける場所を提供したかったんだと思います。

小森 お母さまにとっては、サヘルさんの未来が大切だったんですね。

サヘル でも、それが28年前の日本だったから良かったんですよ。当時の日本には、いい意味でお節介な人がたくさんいましたから。

小森 お節介なご近所さん?

サヘル そうそう。お節介ほど幸せなものってないんですよ。スーパーで毎日試食だけしていたら、係のおばさんが「ちょっと待って、これ持っていってね」って、食べ物がぎっしり詰まった紙袋を差し出してくれたり、学校給食のおばちゃんが、路上生活をしていたときにお風呂にも入れずに異臭がする私を見かねて「どうした、大丈夫?」って声をかけてくれて、公園生活から私たちを助け出してくれたり。

小森 今の世の中、「大丈夫?」って声をかけることが、日本人同士でも減っていっているかもしれませんね。

サヘル SDGsのバッジをわざわざ胸につけなくたって、日本人は以前から面倒見の良い、いい意味でお節介でSDGsだったわけですよ。私はそれを強く体感してきた。だから、今の日本の人たちにもすごくそれを伝えたい。ちゃんとお隣さんが見えていますか、ちゃんと向き合えていますか、って。

小森 特にコロナ以降どんどん人と人が分断されてしまって、より一層大きな壁となってしまっていると感じます。

サヘル 決して日本だけのことではなくて、世界共通の問題だと思います。差別とは一体何なのか、なぜ人は差別をするのか。それはたぶん、未知なるものへの恐怖からでしかない。恐怖から、または無関心から、差別が生まれてしまうんじゃないでしょうか。

小森 それは私も共感するところが多いですね。私の場合、父の仕事の都合で1歳から4歳までサウジアラビアで暮らし、幼稚園で日本に帰り、また8歳でエジプトに行ったんです。そこで通ったインターナショナルスクールでは、異なる国籍の子どもたちの間で多少の差別的な言葉を耳にすることはありましたが、基本的にはお互いを認め合っていたように思います。それよりも私にとっては、日本に帰ってきた時のほうが、戸惑いが大きかったですね。

サヘル いじめですか?

小森 うーん、受け入れられないという感覚が強くありましたね。日本には小学校5年生で再帰国したんですけれども、周りの子からは、見た目は日本人なのに何か雰囲気が違う子という目で見られて、みんなに無視されるということが数か月くらいはありました。あれ、同じ日本人なのに受け入れてもらえないんだ、おかしいなぁって。

 その経験から学んだのは、国籍など何人だから受け入れる、何人だから受け入れないということではなく、差別をする人は、たぶん価値観や無知から来る恐怖心から相手を受け入れられず、距離をとろうとする気持ちが働いてしまうんじゃないかなと。

サヘル でも、分からないということは相手には自分とは違ったもの、初めて出会う個性があるということですよね。外国にいると自分の考えていることは自分の言葉でちゃんと伝えていくこと、そこにも個性がすごく求められる。それが日本の輪の中、たとえば学校の中に入ったときに、個性の強い子はちょっと変わっている子という受け止め方をされてしまう事は少なくないですよね。

 個性があるってとっても素敵なこと。人間には全員それぞれの色があるはずなのに、どうしてそれが認められないんだろうって、いつも思っていたんです。生まれたときから自分の色って必ず存在しているから。みんなに合わせて無色になる必要はないんです。

小森 それはすごく響く言葉ですね。私も子どもの頃は、周りの様子をじっくり観察し、なるべく目立たないように、何も言わないようにって考えていたところが、多分あったと思うんです。

 二十歳になるまでは3、4年ごとに住む場所が変わっていたので、行く先々で自分が受け入れられるためには、なるべくその場所の色に自分が染まるようにしていかないといけなかった。だから周りの様子を見て、それに自分を合わせるという癖が、今でも残ってしまっているかもしれません。

サヘル 私も施設で育っているので、養子を迎えようと来た大人たちに好かれるよう、とにかく顔色ばっかりうかがっていました。それは苦しかったですよ、自分らしさなんてないなって。でも、人間だれでも過去のトラウマを抱えて生きていると思うんです。それは弱点かもしれないけど、弱さって逆に、私たちの強みなんですよね。

 自分にとっては苦しかった幼少期も、その経験があるから他人の変化に気づけるようになったし、人の目をしっかり見られるようになったし。トラウマも一つの財産で、どんなこともプラスに変換できる。それを人生が教えてくれるからこそ、焦ることって本当に必要ないんだなって私は思うんです。

「カンボジアの孤児院を訪問した時の写真です。キャラクターの洋服を着ている少女が帰りぎわに、別のボランティアの人に撮ってもらった自分の写真をくれました。彼女たちには自分が写った写真がほとんどないから、大切な写真を渡したのは、『私も連れて行って。忘れないで』という深い意味でもあると思います」(サヘルさん)
「カンボジアの孤児院を訪問した時の写真です。キャラクターの洋服を着ている少女が帰りぎわに、別のボランティアの人に撮ってもらった自分の写真をくれました。彼女たちには自分が写った写真がほとんどないから、大切な写真を渡したのは、『私も連れて行って。忘れないで』という深い意味でもあると思います」(サヘルさん)

2021.07.16(金)
取材・文=張替裕子(giraffe)
撮影=平松市聖