「見立 十二ケ月の内 二月 狐忠信 中村芝翫・釣狐」 河鍋暁斎記念美術館 [展示期間:4/20~5/19]

 幕末から明治の混乱期を生きた絵師、河鍋暁斎(1831~1889)といえば辻惟雄『奇想の系譜』に登場する絵師。鹿鳴館や三菱一号館を設計した英国人建築家ジョサイア・コンドルに日本画を教え、フィラデルフィア万国博覧会に肉筆作品を出品し、師について学んだ狩野派、浮世絵のみならず、土佐派や住吉派、四条円山派、琳派、文人画、中国画、西洋画までを手がけた異能の人だ。しかしその人生が江戸と明治の境界にまたがっていたため、江戸絵画の専門家からも近代絵画の専門家からも敬遠され、さらに酒の席で戯画を描いて投獄された、という経歴も相まって、美術史の中では光の当たらない時代が長かった。

若くして嘱望された画才の煌めき

「石橋図屏風」 千代田区立日比谷図書文化館 三谷家寄託資料 [展示期間:5/21~6/16]

 だがその異色の経歴だけでも、いったいどんな画を描くのかと興味を抱かせるには十分だろう。古河藩士の子に生まれ、幼い頃から画才を見せた暁斎(周三郎)を、父・記右衛門は数え年の7歳で浮世絵師・歌川国芳に入門させたという。間もなく国芳から狩野派の絵師に師を替え、さらにその師の死後は駿河台狩野家の当主・洞白陳信について修行。19歳という異例の若さで「洞郁陳之」の号を授けられ、独立を認められた。そして27歳で江戸琳派の名手、鈴木其一の次女を妻に迎えると、翌年から「惺々狂斎」と号するようになる。

「唐人相撲図」 個人蔵 [展示期間:4/20~5/19]
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「狂」とは穏やかでない、と思われるかもしれないが、17世紀の中国・明時代の末期に、陽明学の過激派が唱えた「狂」の思想が18世紀京都に流れ込み、芸術の領域で「個性」と解釈されたことが、この時代の京都に伊藤若冲や曾我蕭白、長沢芦雪ら、突出した絵師たちが現れた背景のひとつともなった。かの葛飾北斎が自ら「画狂人」と号したのも、「狂」の思想の延長上にあることだ。そして「狂斎」もまた、生涯「狂」の絵を求め続けた絵師であった。

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2013.05.11(土)