ラファエロと言えばレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ・ブオナローティに並ぶルネサンス三大巨匠の一人。教科書的な美術史が、ルネサンスからマニエリスムに移行する年を便宜上1520年──つまりラファエロが亡くなった年──に定めていることからも、まさに時代を画する芸術家だと見なされていることがわかる。それどころか、19世紀半ばのイギリスには、ラファエロ以前への回帰を謳う「ラファエル前派」まで登場するのだから、その後の西洋美術にとってラファエロがどれほど重要な規範であったか、わかろうというものだ。
ところがレオナルドの《モナ・リザ》や《最後の晩餐》、ミケランジェロの《ピエタ》や《ダヴィデ像》、《最後の審判》に匹敵する、ラファエロと言えばこれ、という作品のイメージが即座には思い浮かばない。
日本どころか、欧州以外で初の大規模展覧会
何もラファエロが決定力不足の画家だったという話ではない。この「重要なポジションにいるのに日本では意外と知られていない」、いわば「損をしている巨匠」ラファエロの業績を確認する絶好の機会となるのが、ヨーロッパ以外では初めて(当然日本初)の大規模展となる「ラファエロ」展だ。
展覧会は第1章:画家への一歩、第2章:フィレンツェのラファエロ─レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロとの出会い、第3章:ローマのラファエロ─教皇をとりこにした美、第4章:ラファエロの後継者たち、と、その人生を時系列で追う4章立てで明快に構成されている。
中部イタリアの都市、ウルビーノで生まれたラファエロは早くに画家だった父を亡くし、当時高い評価を得ていたペルジーノの工房に弟子入りして腕を磨いた。本格的な作品が現れるのは17歳の頃からで、父の工房を継ぎ、若いながらも「マエストロ(親方)」として活動していたと思われる。しかしその才能は一地方都市には収まりきらず、チッタ・デ・カステッロ、ペルージア、シエナ、そして1504年以降、ルネサンス芸術の中心地、フィレンツェへの進出を果たす。
2013.04.13(土)