狩野派は損をしている。そもそも「狩野派」と十把一絡げにされているせいで個人名が認識されにくい上(せいぜい永徳、探幽まで)、判官贔屓の日本人には、「400年にわたって画壇を支配した」「粉本主義でオリジナリティがない」「組織力」「幕府御用=公共工事担当」「それってゼネコン」の狩野派より、徒手空拳で成り上がった長谷川等伯あたりの方が、感情移入しやすいからだろう。
だが室町時代から江戸時代まで、時の政権におけるオフィシャル絵師のポジションを獲得し、結果的に400年もの年月を政権の中枢で過ごしてきた画派は他にないし、伊藤若冲から尾形光琳、円山応挙まで、以後の絵師たちの誰もが皆、画技の基本を狩野派に学んでいる。その時々で画風を刷新する才能を自らの内から輩出し、歴史の激流を渡ってきた狩野派の航跡は、いっそ「大河ドラマ」にしてもいいくらいだ。狩野派がこの長い歴史を通じて最大の危機を迎えたのが、豊臣氏から徳川氏への政権交代期だった。
織田信長、豊臣秀吉という2人の天下人からその才能を愛され、城郭の壁や襖に10~20丈(30~60m!)という巨大な梅や松を、「鶴が舞い、蛇がのたうつような」ダイナミックな筆づかいで描きまくった永徳が、48歳という若さで亡くなったのが、1590年。背後には猛追する長谷川等伯の足音が迫り、後継者の光信(永徳の長子)は20代と若く、父ほどの器量もカリスマもない。さらに秀吉の死から関ヶ原の戦いへ、天下がどこへ定まるか見通すことの出来ない不透明な情勢下で、狩野派は一族の命運を賭けた大勝負に出る。徳川家、豊臣家、宮廷にそれぞれ一族の重鎮を御用絵師として配し、どこか一派だけでも生き延びて、狩野派の画技と血統が残ればよしとする、凄まじいまでの「三正面作戦」を採ったのだ。
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2013.03.23(土)