そんな映像に遭遇すると《うしろすがたのしぐれてゆくか》(種田山頭火)という絵画的な句を思い出す。《せきをしてもひとり》(尾崎放哉)という枯れ木に似た句も呼び起こされる。

 ただ、現代アメリカのノマドであるファーンには、山頭火や放哉よりも骨太の体質が備わっている。寂寞よりも個の強さが際立ち、孤立と渉(わた)り合える自由の匂いが漂う。いわばゴージャスな孤独だ。

 これはなんだろう。私は改めて思った。風土のちがいはもちろん大きいのだが、ファーンは「心の体幹」が並外れて強い。愚痴はこぼさない。強がりはいわない。自分をクールに突き放せる(偶然出会った教え子に「ホームレスじゃなくて、ハウスレスなのよ」と告げる場面がある)。涙を滲ませるシーンも一度きりだ。

 だが、無表情な鋼鉄の女を想像してはいけない。映画の途中、私は気づいた。彼女は、亡くなった夫のことをずっと考えつづけている。嘆きや悲しみはめったに露(あら)わさないが、ごくこまかい感情の変化が、さっと顔をよぎることがある。

 それ以外の場面でも、ファーンはときおり、他者に小さなサインを送る。微笑であれ軽いうなずきであれ、どれもさざなみのように控え目なしぐさだ。

 

 ジャオも、そこで神経を働かせる。派手な身振りを伴わないファーンのサインに気づく人々を、そっと画面に呼び出すのだ。つまり彼女は、ファーンを「単騎の漂流者」として直立させる一方、他の漂流者たちと穏やかに交流させる。

 たとえばファーンは、アマゾンの配送センターでリンダ・メイというノマドと知り合う。彼女を通じて、RTR(車で漂流する人たちの集会)にも出席するようになる。「息子の自死から逃れられない」ボブ・ウェルズも、「カヤックから見たツバメの巣」について語りつづけるスワンキーも、なぜか記憶に残る人々だ。

 背景は異なっても生活形態を共有する人々は、こうして物資や知恵を交換し合う。タイヤがパンクしたときはどうするか。排泄用のバケツはどのサイズがよいか。GPSはどんなときに必要か。どれも現実的な知恵だ。まだある。身近な家族や友人を失ったときどうすればよいのかという難問についても、彼らは低い声でささやきかわす。

2021.04.29(木)
文=芝山 幹郎