今でも安諦村には力松(庄一郎)の兄の末裔にあたる方やご親戚が、農業をしながら暮らしている。

紀子さまの祖父は学究肌の人だった

 貧しさの中から身を起こし、教育者として一生を終えた川嶋庄一郎の長男として明治30年に生まれたのが川嶋孝彦である。紀子妃にとっては父方の祖父にあたる。

 孝彦は東京帝国大学法学部を大正12年に卒業、内務省に入省した。

 その後は、内閣官房総務課などを経て、内閣統計局長を務めている。在任期間は8年に及び、これは歴代局長の中でも大変に長い記録である。

「官吏と言うよりは学究肌の人だった」と言われるが、確かに彼は一官僚として統計学を勉強する中で、次第に深くこれに傾倒し、その中に人生の喜びまで見出していったようである。彼は随筆の中でこう語っている。

「私は統計の仕事にたづさはる様になって、非常に仕合せだと思って居る。統計の仕事には余徳がある。(中略)統計家は高邁な識見と明敏果断な判断力によって核心をつかまなくてはならない。一種の飛躍をやらなければならない。……だから、統計の仕事を一心不乱に努めて行くと知らず知らずに自分の能力が之に適応する様になる。細心にして大胆、・大きく撞けば大きく鳴り、小さく撞けば小さく鳴る。・即ち、西郷南洲の様な性格が、仕事をやりながら、ひとりで養はれて行く。何と大きな統計の余徳であるまいか」(島村史郎「川島孝彦と統計」『統計』)

 内務省のエリートであったが、その業務の中で接した統計学に、自分の生きがいを見出していった孝彦の姿が浮かび上がってくる。

 

無視され続けた孝彦の意見

 だが、同時に忘れてならないことは、孝彦が統計局長として従事していた期間は、まさに日本が軍国化を強め、大東亜共栄圏の確立のために統制経済を進めていく時代であったという点である。盧溝橋事件が勃発し、企画院が創設されたのが昭和12年。翌年には国家総動員法が制定された。それらを策定するために求められたものこそが、正確な統計データだったのだ。

2021.04.23(金)
文=石井 妙子