学習院大学を通じた奇縁
当時は教師などいるわけもなく、村の住職がにわか教員となって、子どもたちの教育にあたったという。力松の聡明さは抜きんでていたようで『安諦村誌』(大正3年)には「天資英明」と讃えられている。力松は、この後、学業に励むことで人生を切り開いていく。
村の小学校を卒業すると、詳しい経緯は不明だが和歌山尋常師範学校に進んだ。当時の師範学校は授業料が無料であった。そのため力松でも進学することができたのだろう。卒業後は同学校の訓導(現在の教諭)となる。だが、力松はさらに明治24年、東京高等師範学校に入学する。卒業後に見込まれて川嶋庄右衛門の娘、志まと結婚し婿養子となるのが明治27年のことだ。
以降は、教育者として京都府尋常師範学校を振り出しに、富山や滋賀で教鞭を取った。明治34年には学習院教授となり、初等学科長も兼務している。後に孫の辰彦も学習院大学教授となり、また曾孫の紀子妃がこの学校に学ぶことになるのは奇縁であろう。
学問によって道を切り開いた教育者の家系
庄一郎は学習院を退官すると、再び佐賀県立師範学校長など日本各地の教育機関に赴任し、最終的には大正9年、故郷、和歌山市の視学(現在の教育長にあたる)となった。生まれ故郷において教育行政のトップに立ち、その後は主に和歌山市内で暮らして、昭和22年に没している。
死後に、故人の強い希望として和歌山市内にある川嶋家の菩提寺の他に、安諦村にある生家の裏山にも墓を建てた。
庄一郎は明治の時代に生まれ、まさに学問によって貧しさの中から抜け出し、立身出世を果たした人物だった。養子にも行ったが、終生、自分の生まれ育った、貧しい山里を忘れることはなかったのだろう。貧農の三男として生まれ、平等に教育を受けるという新時代の学制に接し、学問によって自分の道を切り開いた。教育こそが全ての根本という思いが強かったのだろう。生まれ故郷の安諦高等小学校には、たびたび寄付をしており、昭和11年に来校した際には土産として児童全員に鉛筆を贈っている。
2021.04.23(金)
文=石井 妙子