その一方、紀子妃の存在感は増していった。
公務には全て積極的で、宮中行事などでは皇太子妃に代わって美智子妃の隣におられることが多い。何よりも大きな出来事は39歳というご年齢で、悠仁親王をお産みになられたことだろう。喪中での婚約が許されたのも、学生の身分でのご婚約が許されたのも、弟宮であるからとかつては言われた。だが、その「弟宮の妃」として迎えられた紀子妃の現在のお立場は、単なる一宮家のお妃というものではなくなっている。「3LDKのプリンセス」「平成のシンデレラストーリー」と言われた紀子妃。それにしても、なぜ、紀子妃だけが大きな環境の変化を乗り越えて皇室に適応され、足場を築いていくことがおできになったのだろうか。
ルーツは紀州
紀子、という名前は字面を見る限り、そうめずらしいものではない。だが、これを「のりこ」ではなく「きこ」と読ませる例は、そう多くはないであろう。名前の由来はどこにあるのか。川嶋家を知る人に尋ねた。
「二つの理由からだと聞いています。一つには川嶋家のルーツが和歌山にあり、その旧国名である『紀州』から取られたと。また、もう一つには辰彦さんのお母様の名前が紀子さんとおっしゃる。辰彦さんも奥様も、このお母さまのことを大変敬愛していた。そこで『紀子』とお付けになったようです」
川嶋家の由緒については、これまで「和歌山市内に広大な土地を有した庄屋」あるいは、「有田屋という屋号の海運業」とマスコミに報じられてきた。文献などで、それを確認することはできないが、川嶋家の関係者によると、以下のように伝えられているという。
「川嶋家はもともと有田屋の屋号で蔵米船を持ち、海を中心とした商いをしていたのだそうです。江戸時代の半ば、もしくは後半から和歌山城下に居を構えて海運業で隆盛した。ところがある時、海難に遭って船が沈み、人も亡くなった。それを境に当時の当主が、海の商売から丘へと切り替えて、次第に財産を田畑へと移していったそうです。それで和歌山に農地や山林をたくさん所有するようになった。でも、終戦後の農地解放で全てを失ってしまい、今では、和歌山には先祖の墓の他に、何も残っていないのだそうです」
2021.04.23(金)
文=石井 妙子