1枚の写真からつながったソーシャルビジネスの道
―― 一方、原口さんにもいろいろな転換点があったそうですね。
原口 そうですね。私は幼い頃、将来の夢が全く描けなかったんですよ。何をしたいのか、進路も選べなくて、すごく悩んでいました。ところが高校生の時、写真家ケビン・カーターの「ハゲワシと少女」という写真に出会って、すごく衝撃を受けたんです。
――アフリカの貧しい村で、やせ衰えた少女とその背後で餌を狙うハゲワシの姿を撮影した有名な作品ですね。
原口 何不自由なく育ててもらった私は、自分自身で未来を選べる環境にある一方で、地球の裏側では飢餓で苦しみ死んでゆく少女がいる。この世界の不条理を知って、憤りというか、「これじゃダメだ!」と強く思ったんです。そして、貧困をなくしたい、少しでも貧しい人たちの役に立ちたいと思い始めました。それでいろいろと調べたところ、国連が自分の目指す仕事に最も近いと考え、大学に進んでまずは経済学を勉強しました。その在学中に、途上国でのボランティアに参加し、フィリピンのスモーキーバレーにも行ったんです。
徳島 あぁ、廃棄物処分場のスラムですね。
原口 はい、そこでゴミを拾って生活する人たちと話をする機会があったんです。その時、私よりはるかに小さい少年が、「親もここで働いていて、自分は学校にも行っていないし、これからもここで生きるしかない」と言いました。それを聞いて、「国連で働く」という夢が改めてはっきりとしたものになったんです。そこからはもうまっしぐら(笑)。大学卒業後はイギリスの大学院で「貧困と開発」という修士課程を修め、帰国後、まず国際協力に関わるため、ODAの実施機関であるJICAに入構しました。
――JICAではどんなお仕事を?
原口 国際機関との連携事業や中南米地域の円借款案件を担当しました。ダイナミックな仕事にやりがいも感じていましたし、自分の未来に少しずつ近づいていく感覚もありました。でも、4年後に体調を崩してしまい、故郷の熊本に帰って療養せざるをえなくなったんです。24時間365日といえるぐらい仕事に没頭し、一生懸命夢を追いかけて階段の途中まで登ってきたのに、それなのにいとも簡単にガラガラと崩れ落ちてしまったような気持ちでした。
徳島 それは大きな挫折でしたね。
原口 はい、生きていても意味がないと思いました。1年間ぐらい引きこもりのような状態で誰とも会えず、情報を遮断したので、本も読めないような有様で。でも、不思議なことに唯一手に取って読み始めることができた本が、ノーベル平和賞受賞者ムハマド・ユヌス『貧困のない世界を創る』というソーシャルビジネスの本だったんですよ。ページを開いたら一気に読んでしまって、気づけば蛍光ペンのマーキングばかり(笑)。
やっぱりこれだと思ったんです。自分は貧困をなくすためのソーシャルビジネスがやりたいと。スモーキーバレーの少年のように貧困の連鎖に陥ってしまう人たちも、その親に雇用があれば貧困から抜け出せるのではないか、と。私がこれからの人生でやりたいのは援助というアプローチではなく、ソーシャルビジネスなのだと確信しました。そして、起業しよう、と。
――まさに転換点ですね。
原口 自分にとってはどん底の時期でしたが、結果的に私の人生が一度リセットされたんですよね。とはいえ、起業するにも、その資金も経験も、そして志を共に成し遂げる仲間もないというないない尽くし(笑)。とりあえず「ソーシャルビジネス、起業」と検索してみたら、偶然出てきたのが社会起業家のプラットフォームであるボーダレス・ジャパンでした。
そこには「ソーシャルビジネスで世界を変える」という言葉があって、自分にはもう何も失うものはないし、この会社を信じて起業しようと思って応募したことが、今のビジネスレザーファクトリーへとつながっているんです。
2021.03.19(金)
取材・文=張替裕子(giraffe)
撮影=三宅史郎