和光で音楽教育、演劇教育が盛んになった理由
和光学園はもともと1933年に成城学園から分家する形でスタートし、翌年、小学校が開校、戦後の1947年に中学、50年に高校、53年に幼稚園を設け、66年には大学が開学した。
このあとさらに和光鶴川幼稚園(1969年)、和光鶴川小学校(1992年)が新設されている。
和光では発足当初から戦後にかけて、成城学園の教師だった作曲家の岡本敏明、児童劇作家で学校劇運動に携わっていた斎田喬が教えに来ていた(※6)。
これがのちにいたるまで音楽教育、演劇教育が盛んに行なわれる下地となる。
戦前より生徒の自主性を重んじてきた自由な校風は、戦後、丸木政臣らの指導もあり、さらにユニークな展開を見た。
三枝成彰は後年、和光時代について、《クラスの顔ぶれもユニークで、家の事情で他校から移ってきた子や、公立の学校になじめないで転校したという子もいた。
国籍すらバラバラだった。障害を持つ生徒も他の生徒と一緒に学んでいた。
そういう環境で暮らしていると、「世の中にはいろいろな人間がいるのが当たり前。みな平等なんだ」という意識が自然に育ってくる。
何でも自分たちで決めさせてくれたし、学校もそれを尊重してくれた》と振り返っている(※6)。
1970年代に国が障害児の養護学校就学の義務化や、普通学校のなかに障害児学級の設置を推進するようになってからも、和光では「共同教育」を標榜し、障害を持つ生徒も普通学級で一緒に学ぶ姿勢が貫かれた。
芸能人や文化人が子供を和光に通わせたがるのも、ユニークな才能が輩出されるのも、こうした自由で多様性を認める校風ゆえなのだろう。
オザケン、小山田圭吾、オリジナル・ラブ田島貴男も……
いまから25年ほど前、1990年代半ばにも和光学園が注目されたことがある。
それというのも、このころ音楽シーンで脚光を浴びていた元フリッパーズ・ギターの小沢健二と小山田圭吾、元L⇔Rの嶺川貴子、オリジナル・ラブの田島貴男などといったミュージシャンが和光出身だったからだ。
小山田は小学校から高校まで和光ですごし、中学時代に小沢と一緒になっている(小沢は中学卒業後、神奈川県立多摩高校に進学)。
田島と嶺川は大学が和光である。
当時、和光学園をとりあげた雑誌記事では、和光学園出身の著名人30人がリストアップされていた。
リストアップされた出身者にはやはりミュージシャンが多く、先にあげた4人以外にも、1950年代のロカビリーブームの立役者のひとりミッキー・カーチスをはじめ、元ジャックスの早川義夫、元・休みの国のリーダー高橋照幸(2016年死去)、元たま(記事掲載当時はまだ解散前)の石川浩司、リトル・クリーチャーズの鈴木正人・栗原務・青柳拓次、女性ミュージシャンでは元MANNAの梶原もと子、コシミハル、さねよしいさ子の名前があがっていた。
和光大中退の石川浩司は、同記事中、「和光っぽい人間とはどんなタイプか?」との質問に対し、《飛び道具的な人間が多いよね。
そうとしか、表現のしようがない。まちがっても王道なんかを歩く人はいません》と答えている(※7)。
その言葉どおり、クセ者ぞろいというか、オルタナティブ色の強い顔ぶれである。
2020.05.05(火)
文=近藤 正高