あっけらかんとした美しさが燕子花図の真骨頂
ひと目で「あ、見たことある」と思い当たる人も多いメジャーな作品である。「カッコいいじゃん!」と絶賛する人がいる一方、「花だけってわかりやすすぎない? もうちょっと難解っぽくないと、アートな感じがしないんだけど」という向きもあるが、さて、あなたはどちらだろう。私としては「ややこしい方がカッコいい」というのは、それこそカッコつけすぎというもので、美術を見て泣いたり笑ったり驚いたり、「これ欲しいな」とムラムラ来たりするチャンスを逃してしまうと思うのだが。
《燕子花図》は、どこまでも続く金色の背景(というか水面)に、群青(花のブルー)と緑青(葉のグリーン)で彩色した燕子花をデザイン化し、さらにいくつか花群のパターンを作って、それを繰り返しながら配置することで、心地よいリズムを感じさせる。ややこしい「意味」とか、とかく現代人が探したがる「自分」なんてものは、《燕子花図》にはない。ただあっけらかんと美しい燕子花があるだけだ。
余計な説明を省いた光琳の天才ぶりを見よ
とはいえこの屏風、ただ「きれいな燕子花を描いてみました」だけの絵ではない。実は『源氏物語』と並ぶ平安時代の恋愛歌物語、『伊勢物語』を下敷きにした絵だということが、わかる人にはわかる仕掛けになっている。江戸の頃に『伊勢物語』といえば、女性ばかりでなく、男性も教養として当然知っているべき(名場面を知ってる程度でいい)グレートクラシック、という位置づけになっている。その「読んだことはないけど誰でも知ってる」名場面のひとつが、川の水が蜘蛛の手足のように分かれているので八つの橋を架けた場所=八橋に差しかかった旅人たちが、沢に咲く燕子花を目に留め、歌を詠んだ、という「八橋」のシーンなのだ。
こういう場面を絵にする場合、物語をそのまま説明的に描くこともあれば、人物を抜き、象徴的な風景や事物だけで表現する「留守模様」と呼ばれる形式で描くこともある。現在知られる光琳最初の「八橋」は左の掛幅だが、人物を抜き、橋も抜き、ただ燕子花の花だけを光の中に咲き誇らせた。それでも一目で『伊勢物語』だとわかってしまう。凡庸な絵師なら、まず説明的な物語絵を描き、人物を省き、橋を省き……、段階を追って「花だけ」の画面に到達しそうなものだが、光琳には「いきなり燕子花」ができてしまうだけのセンスがあったのだ。
2012.05.12(土)