茶室「弘仁亭」前のカキツバタ 根津美術館(昨年5月撮影)

 美術館だの、ゲージュツだのいうと、「気取ったお勉強(しかも応用問題)」感が先に立って足が向かない、という人も多いかも知れない。ごもっとも、である。しかし今、美術館に展示されている「作品」は、かつて「インテリア」や「おしゃれ雑貨」「パーティグッズ」「テーブルウェア」「ファッション」として当たり前のように生活の中にあった、いわば高級な実用品。インテリア誌やファッション誌をめくる感覚で眺めてみれば、時代ごとの流行や美意識の変化、作者や持ち主のセンスの良さまで見えてくる。美術館も、総合デパート系からセレクトショップ系まで個性豊かで、センスの合う館と出会えれば、一生もののつき合いができる。ということで、まずはどこかの家電メーカーのキャッチフレーズ的に、「すごい、かんたん、きもちいい」ところから、美術を見始めてはどうだろう。

キラキラ琳派は、日本美術界のSMAP?

 どこから、といったら、桃山時代末期の京都に生まれ、現代にいたるまで生き延びてきた、最強の「見ればわかる」おしゃれ絵師集団「琳派」しかない。エントリーする絵師の誰も彼もが苦労知らずのお坊ちゃん。趣味よく、品よく、「天才だもの」。字面からしてキラキラしい琳派はもはや、「琳派SMAP」と呼びたいお絵描き王子たちなのである。

 その筆頭は、やはり琳派の名の由来にもなった尾形光琳(1658~1716)だろう。この人は5歳下の実弟・乾山(1663~1743)ともども、後水尾天皇の后、東福門院を上顧客とするスーパーブランド呉服商「雁金屋」に生まれたボン。遡れば曾祖母は本阿弥光悦の姉にあたり、その光悦の蒔絵や、光悦とのユニットで才能を発揮した俵屋宗達の屏風に囲まれて育った光琳は、子供のころから能や書、狩野派の絵などを仕込まれた、イヤらしいほどのディレッタントであった。

 家業が順調なら、そのまま遊び暮らして一生を終えることもできたかもしれない。ところが30歳の時に父親が亡くなると、光琳・乾山兄弟は家屋敷の他に、莫大な大名貸しの証文を相続する。そして光琳の底が抜けた遊蕩、さらに借金の踏み倒しに遭い、40歳にして破産してしまうのだ。自活せざるを得なくなった兄弟は、「芸は身を助く」を実践。貧乏になっても目減りしないセンスと蓄積した技術や教養を武器に、光琳が絵、乾山が陶芸の道を進むことになる。

 以来、光琳がプロの絵師として活動したのは、59歳で亡くなるまでのわずか20年たらず。しかも画家人生の前半生は、またしても大借金→江戸在住のパトロンを頼って「そうだ、江戸いこう」で出稼ぎ→野暮な武家の流儀に耐えられず5年で帰京、とめまぐるしい。そんな光琳が本格的に絵筆を取って10年ほどの時期に描かれたと考えられているのが、根津美術館で毎年その花の咲く時期に公開されている、《燕子花図屏風》だ。

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2012.05.12(土)