“やらなくてもいい”手間を重ねた先に

 結果が出ず、世間に認められない日々が続けば、人は腐る。卑屈になる。行き着く先が冷笑だ。冷笑は、強者の余裕ではない。認められない自分を守るための、生存戦略である。世界に対し「どうせ」「所詮」と距離をとることで、精神的な安定を確保する。

 しかし、その態度が続けば、感性は次第にすり減っていくだろう。守るために、摩耗する。そんな、冷笑の罠。

 対して、渡辺は生活の小さな領域に集中する。具体的で客観的なモノと向き合う。世間に対しては閉じる一方、モノに対しては開かれる。そうやって「闇の時代」を生き延びた。これもまた、自身の精神的安定を確保する術のひとつだろう。外的な制約があっても、内面的な自由は手放さない。表面的な富が奪われても、内面の美徳は奪わせない。

 生存戦略としての冷笑。生存戦略としてのチャーハン作り。同じ生存戦略なら、鍋を振ったほうがいい。

 いや、もっと積極的な意味を読み込んでみよう。食べる行為は「やらなければいけない」営みだ。それ以上のこだわりは、必ずしも必要ない。最低限、食べられれば足りる。生活が廃れたときに真っ先に陥りがちなのが、この「最低限、足りる」だ。

 だが渡辺は、その必須行為に「やらなくてもいい」手間を重ねる。ネギ油を自作し、お玉を炙る。生活を飾り、生きることを彩る。私たちは、そんな彩りに品を感じ取っているのかもしれない。

 読書家の渡辺にならい、ここで本を引こう。哲学者・國分功一郎は次のように言う。

「人はパンがなければ生きていけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。私たちはパンだけでなく、バラももとめよう。生きることはバラで飾られなければならない」(『暇と退屈の倫理学』)

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