誰かを落胆させたり、怖がらせたりする言葉はいらない

 先生、看護師、家族の助けを借りて闘病するけど、病気になっているのは自分自身だから、結局は個人での闘いになる。ひとりで戦い抜いてきたからこそ、「私はこうしてきた」と言いたくなるんだろう。また、治療のほうが怖いって人もいる。治療を避けたい気持ちが、標準治療からかけ離れたデマや迷信を生み出してしまっている気がする。

 SNSって、誰もが書き込んだり、読んだりできる場所。集まっている人のなかには、がんと闘っている人もいるだろうし、家族ががんの人もいるだろうし、なにかしら病気と戦っている人がいるはず。たとえ、病気のことじゃなくても、誰かを落胆させたり、怖がらせたりする言葉って、みんなが集まる場所には必要ないと思っている。第一に、それが礼儀だと思う。

「無知は罪なり」

 がんになった著名人の本など、相当な量を買い込んで、片っ端から読んでみたけど、ハッとするものやピンとくるものは皆無。「自分を他人に当てはめることはできない」という考えを強くしただけ。

 気がつけば、ニーチェやソクラテスの本を読んでいた。哲学の本が、一番効いた。といっても、がんになってから買い込んだわけじゃない。

 15年前、サハラ砂漠を縦断する「サハラマラソン」に挑戦したり、山中を走るトレイルランニングにハマった。大きな失恋をして、自然のなかで自分を見つめ直そうと考えたのがきっかけでハマり、その延長で哲学の本を読むようにもなった。

 今回も自分を見つめ直したかったのかどうかはわからないが、手に取っては読むようになっていた。そして、刺さったのがソクラテスの言葉。

「無知は罪なり」

 無知だと、やっぱり生きられない。いろんな知識を身につけることで、惑わされないし、怖くなったりすることが減る。それに、知識がないゆえに無責任なことを言って、誰かを惑わしたり、怖がらせたりすることがない。

 他者の体験談で救われることがある人もいるだろうし、救われたならばそれでいいだろうけど、私にはそれがなかった。

 パパは6度のがんをくぐり抜けてきたけど、だからといって「パパの治療がこうだったから、そうしてみて」と勧めることはできない。これは私の場合でも、同じだ。「この病院で診てもらった」「このタイミングで抗がん剤を打った」は、あくまで私がそうなだけ。効果も人それぞれだし、たまたまなわけだから、自分にしっくり来る方法を自分で見つけて、それを信じて突き進むしかないのだ。

写真=鈴木七絵/文藝春秋

2025.07.10(木)
文=平田裕介