「よかったね。その道に行けて」

「えいちゃん、よかったね。その道に行けて」
かすれた声で。
だけど嬉しそうに。
「その道?」
「アナウンサーになりたいって言うてたけど、ならんでよかったね」
たしかにわたしは学生時代に、アナウンサーになりたいと思っていたことがあり、自分でせっせとアルバイトした貯金を使ってまでしてアナウンス専門学校に通ってもいた。
言葉が好きで、朗読が好きだったからだが、しばらく目指しているうちに、とても自分には向いている職業ではないと気づき、三社のキー局で不合格をもらって、早々に撤退したのだ。
そこから本当に自分が好きなものは何なのかと突き詰めてみたら、言葉は言葉でも、文章を書くほうなのかも? と思うようになった。
子供の頃から物語のようなものは書いていた。
そして、はじめて原稿用紙百枚以上の物語を完成させたのは、大学三年の頃だった。将来の進路や恋愛に悩んでいて、現実から逃げるように長編小説を書きはじめた。いま思えば拙い作品だが、その時は完成させられたことに興奮し、老舗の文学賞に投稿した。もちろん一次選考も通過せず。だけどそれをきっかけに、わたしの執筆がはじまった。
趣味でしかないと思っていたが、ふと、これが真剣にやりたいことなのではないかと、思い至った。
自分の気持ちに気づいたら、そこはバカなほどお気楽な性格で、就職活動をやめてしまった。
アルバイトをしながら小説を書いて、だいたい三年やってみて、ダメならまた就活すればいい。いわゆるロスジェネ世代だ。求人は少なかった。やりたくない職業につくくらいなら、やりたいことに賭けたほうがいい。就職という場おいて希望があまりなかった時代だから、無謀になれたのかもしれない。
けっきょくうまいことに、卒業前に出版社の編集のアルバイトに潜り込み、そのまま社員になったのだが、その間も小説を書いては投稿していた。編集じゃなくて、やっぱりわたしは書くほうが性に合っているとわかってフリーランスになり、雑誌などのライターをしながらも、小説を書いては応募した。
いいところまで行っても、なかなかデビューはできなかった。
簡単に、芽は出なかった。
母はいつも応援してくれていた。母は四柱推命などの東洋占星術に詳しいものだから、それを根拠に褒めて、だから大丈夫なのだと言い続けてくれた。
三十の時にはじめてオリジナルの小説を出せた時も、三十五歳で文学新人賞をもらってデビューできた時も、母は誰よりも喜んでくれた。
覚えてくれてたんや、わたしが歩んできた道を。
脳転移して、意識があやふやなはずなのに。
涙が出そうになって、わたしはごまかすように笑った。
「アナウンサーにならんでよかったって言うけど、なれなかったんやで」
そう茶化すと、母も笑った。
》前篇:「大丈夫よ、わたし死なないから」そう話す母に残された時間は“1カ月”作家・尾崎英子初エッセイ『母の旅立ち』から考える家族の死を読む
尾崎英子(おざき・えいこ)
1978年、大阪府生まれ。2013年『小さいおじさん』(文藝春秋、のちにKADOKAWAより『私たちの願いは、いつも。』として文庫化)で、第15回ボイルドエッグズ新人賞を受賞しデビュー。著書に『ホテルメドゥーサ』(KADOKAWA)、『有村家のその日まで』『竜になれ、馬になれ』『たこせんと蜻蛉玉』(以上、光文社)他。近年は10代から楽しめる作品にも執筆の幅を広げ『きみの鐘が鳴る』『学校に行かない僕の学校』(ポプラ社)他。2024年、『きみの鐘が鳴る』で、うつのみやこども賞受賞。
X @ozakieiko
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2025.06.07(土)
文=尾崎英子
イラスト=swtiih green