【あの本】煮詰まるとページを開きたくなる、稲垣足穂の名作

 石崎さんにとってかけがえのない一冊は、大正から昭和にかけて活躍した稲垣足穂の名著『一千一秒物語』。中学生の頃に出合って以来、何度も読み返している作品だそう。

「食事以外にも、僕は生きる上で母親の影響を強く受けているんですが、この本を手に取ったのも母がきっかけ。ある日『ひゅーはたぶん好きだと思うから読みなよ』と渡されました。

 僕はどちらかというと本を読むのは苦手で、あまり多くの作品を知っているほうではないんです。読んでハマった記憶があるのはJ・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』くらい。小説よりは谷川俊太郎さんとか、詩集のほうをよく手に取っていました」

 『一千一秒物語』は表題作のほか、2、3行の短い物語も含め70篇もの短編が収められた短編集。大人になってから手に取るのは主に制作に行き詰まっているときが多いのだとか。

「文体が独特なんです。『鉄砲で星を打って追いかけられた』とか『月をロープで縛って食べた』とか、シニカルでユーモアがあって。小説というよりも、ロマンやイマジネーションに溢れた散文がパン、パン、パンと自由に並べられていて、詩に近い感じです。

 歌詞を書いたり、音楽を作ったりしていると、凝り固まっちゃうんですね。どうしても自分の表現が同じようなものになってしまうというか――そんな自分を解き放ってルールをぶっ壊してくれる、僕にとってのバイブルなんです」

 石崎家にはこの一冊にまつわるおかしな思い出があるそう。

「ある時、母からこの本に納められた『自分を落としてしまった話』の一節を留守番電話の応答メッセージにしたいと言われて、僕が朗読したんです。

 ふつうの家だったら留守だったら〈石崎です。ただいま外出中です〉とか流れるじゃないですか。それがある時期の石崎家では謎のメッセージが流れていたんですよ(笑)」

自分を落としてしまった話

昨夜 メトロポリタンの前で電車からとび下りたはずみに 自分を落としてしまった
ムーヴィのビラのまえでタバコに火をつけたのも―かどを曲がってきた電車にとび乗ったのも――窓からキラキラした灯と群集とを見たのも――むかい側に腰かけていたレディの香水の匂いも みんなハッキリ頭に残っているのだが 電車を飛び下りて気がつくと 自分がいなくなっていた
(稲垣足穂『一千一秒物語』より「自分を落としてしまった話」)

2025.05.20(火)
文=河西みのり
撮影=釜谷洋史