超えられるわけないのに、母と同業を選んでしまいました
――高校を卒業されて、お父さま(※作曲家の神津善行氏)の教育方針でニューヨークに留学される。本にも多く書かれていましたが、海外生活は開放感があったのでは。

はづき 知らない人しかいないというのは、やっぱりラクでした。ニューヨーク大学の附属語学学校に行って、演劇クラスの聴講生になって。当時はね、マリファナ吸うような人がよくいる時代だったんですよ。1980年に行ったんですが、映画の「スーパーマンⅡ」が公開されて、クスリやって自分がスーパーマンだと錯覚してビルから飛んじゃった人が3人いたんです。「しっかりしないと」と思いますよね、夜遊びもしたけど、常に緊張感がありました。
――先ほどの反面教師もそうでしたが、状況がまずい感じだと気を引き締めてかかるというのが習性になったのでしょうかね。80年代前半のニューヨーク、治安は今より悪かったけれど、芸能やアートも元気な時代で面白そうですね。
はづき 楽しかったですよ、街角でダスティン・ホフマンを見かけたことも。カッコよかった! あるとき私、Tシャツを日本に送るアルバイトなんかしてて、大きな荷物持って歩いてたんです。そしたら手助けしてくれたのが、ロバート・デ・ニーロ。
――えええ!
はづき 「Are you Robert De Niro?」って聞いちゃいました(笑)。ちょうど「レイジング・ブル」が公開された頃でしたね。

――その辺の話もっと聞きたいけど、先へ行かないと(笑)。帰国されて1983年には俳優としてデビューされます。芸能界で親と同じ仕事をする大変さも書かれていて、痛切に感じました。七光りって、光ゆえに影もあるのだなと。
はづき ふふふ、超えられるわけないのに、同業を選んでしまいました。たまに「中村小メイコ」とも呼ばれますけど、やっぱり母の「普通じゃない部分」を見て育ってると、私は「普通」になっちゃう。芸能人として、俳優としては、それだとね……。
でも久世光彦さん(※昭和・平成期の著名な演出家。プロデュースや著述など幅広く活躍)が見つけてくれて、いろんな役をくださってうれしかったですよ。ひどい役ばかりでしたけど(笑)。
松本清張さんの「坂道の家」(1991年)では小間物屋の店員でね、久世さんが「はづき! 鏡を見て、指で鼻の横のにきびを潰して白いのブチュッと出せ」なんていきなり注文してくる。樋口一葉の「にごりえ」(1993年)では女郎の役で「お女郎さんの格好ができる!」とうれしくて。でも現場に行ったらなぜか甚平が出てくるの。久世さんいわく、「あの頃は必ず田舎のおふくろ恋しさに来るマザコンの男がいたんだ。だからはづきは湯上がりスッピン、甚平着て白いおにぎりをいつも食ってろ!」って。ええーっと思ったけど、映像見たらリアリティあるんですよね。挙句の果てに「裏庭で行水してくれ」って。やりましたよ。そしたら「はづき、腹へこますなーッ!」って(笑)。
――「古畑任三郎」の桃井かおりさんの回とか、はづきさんが出てらしたの覚えてます。そして1992年には俳優の杉本哲太さんと結婚。メイコさんに哲太さんがお許しを得に来るところ、本の中でも面白かったなあ。
はづき はい、そしてだんだん私は「家庭内女優」にシフトして(笑)。
――今回のエッセイ、読み終えてまず思ったのが「書き切れなかったエピソード、まだたくさんあるのでは」ということでした。今後も書きたい、という思いはありますか。
はづき 60歳を超えて、今後やれることにも限りが見えてきました。その中では「書くこと」って思いを研ぎすますのにすごくいいし、書きたいなと思います。書けるかな……とも思うけど、ポジティブですからね。そこは毛穴から母に学んできた(笑)。母だって大変なこともあったけど、「あったわねェ、そんなことも!」ってすべて笑い話にしちゃう。そういうのを見てるうちに、「まあ、いっか」って思えるようになっていったんだなとあらためて思います。

神津はづき(こうづ・はづき)
1962年8月(つまり、葉月)、東京都生まれ。俳優として1983年にデビュー。現在は刺繍作家としても活動、不定期に教室を開催中。また受注ブランド「Petit tailor R-60」も展開、自身の年代の女性が着やすく素敵に見える洋服を製作し、こちらも好評を得ている。
instagram:@hazukitoito
聞き手・構成 白央篤司(はくおう・あつし)
フードライター、コラムニスト。「暮らしと食」をメインテーマに執筆する。主な著作に「にっぽんのおにぎり」(理論社)、「自炊力」(光文社新書)、「はじめての胃もたれ」(太田出版)などがある。
https://note.com/hakuo416/n/n77eec2eecddd

2025.05.11(日)
文=白央篤司
撮影=佐藤 亘