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即席で名づけた「ナンシー関」

――そのとき、いとうさんはどんな作品を見せてもらったんですか?

いとう 俺に会うということで、俺のことが彫ってあったよ。逆立ちしてる俺(笑)。あと、桂歌丸師匠もあったと思う。で、これは面白いと。この人は何をするかわからないから雑誌で使いたいと。

 そのまま編集部に連れて行ったと思うんだ。それで、萩原健太さんのコラムに添えるイラストを消しゴム版画でやってほしいと。で、「名前どうしましょう?」ってなって、そこで初めて「あ、そっか、名前いるんだよな」って。それで「ナンシー関」と俺が即席でつけたわけ。

町山 いとうさんは「ナンシー久美」は知ってたの? 女子プロレスラーの。

いとう え? 知らない知らない。ただ単に、関直美だから「ナンシー関」。

町山 そうなんだ! ナンシーさん、プロレスが好きだし、絶対「ナンシー久美」からきてると思ってたのに。皇后雅子さまも大好きだったナンシー久美。田園調布雙葉時代、休み時間に女子プロレスのまねごとをして「ナンシー雅子」と名乗っていた逸話があるんですけど(笑)。

いとう 全然知らない(笑)。当時は、イラストレーターといえばみんなそれ系の名前だったじゃない。ペーター佐藤とかスージー甘金とかキャロル霜田とか。それをさらにパロってつけただけだから、その名前がこんなに長く続くもんだとは2人とも思ってなかったのよ。

本人も「これでずっと食べていけるわけがない」って

――真里さんは、ナンシーさんが雑誌デビューしたときは?

真里 まったく興味がなかった(笑)。その頃、東京で一緒に住んでいましたけど、お姉ちゃんが何をしてるのか全然知らなかったし、私は朝起きて夜帰ってくるごく普通の仕事をしていたので、どっちかといえば冷ややかな感じで見てたと思います。夜中ずっと起きてなんかやってて、私が朝起きて仕事に行く頃に寝る、みたいな生活だったので。「ああ、消しゴムを彫ってるんだな」ぐらいの感じで。

いとう それが仕事になってるって不思議な話だよね。

真里 本人も「これでずっと食べていけるわけがない」っていうのはよく言ってました。ただ、ほんと、私は興味がなくて、お姉ちゃんがお小遣いをくれるから、たま~に出版社へ届けものをしたりはしてましたけど。いまだとデータにして送ったりするんでしょうけど、当時はバイク便さえなかったので。

いとう でもさ、ナンシー自身も「これはずっと続かない」と思いながらやっていたというのは、どういう気持ちだったんだろう、最初の頃は。

真里 子供の頃から細々と小っちゃいことをするのが好きだったし、手先が器用だったから、楽しかったとは思います。消しゴム版画を彫ること自体は。

町山 投稿もしてましたよね。『ビックリハウス』(注:74年~85年まで発行されていたサブカル雑誌。85年にはナンシー関も短編小説『通天閣はもう唄わない』を連載)とか。

真理 そうみたいです。

いとう あ、そうなんだ! ハウサーだったんだ。

町山 私にはナンシーさんと同い年の兄がいるんですけど、2人とも高校生の頃、初期『ビックリハウス』に投稿してたんです。版画ではなくネタを。

いとう そうなんだ。

2025.04.01(火)
文=辛島いづみ
撮影=平松市聖