「月収はせいぜい20万」「絶対に仕事なんかじゃない」東大中退のパチプロが明かすギャンブラーの“生活実態”とその“最期” から続く

「見えるものしか見ない。しかし目を皿のようにして見る。そして見破る。」

 独特の観察眼によるテレビ批評・消しゴム版画などで、多くの熱狂的なファンを生んだナンシー関氏。彼女がこの世を去って19年が経つが、今もなお切れ味鋭い表現の数々は色褪せることがない。彼女の慧眼はどのように磨かれてきたのだろう。

 ここでは、小説家・ノンフィクション作家として活躍する関川夏央氏が、記憶に残る著名人の晩年を描いた『人間晩年図巻 2000-03年』(岩波書店)の一部を抜粋。稀代のコラムニストの晩年を紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)

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「図工といえば版画」だった

 ナンシー関は1962年、青森市で食堂、駄菓子屋、ガラス屋を経営する関家の長女として生まれ、直美と命名された。家業はのちガラス屋一本にしぼった。彼女はラジオ深夜放送を愛した世代で、高校3年が終る頃始まった「ビートたけしのオールナイトニッポン」から、語り口とものの見方に深い影響を受けた。青森は棟方志功の出身地で、図工といえば版画だったから、彼女が高校時代に「消しゴム版画」を彫り始めたのは自然なことであった。

 82年、1年浪人ののち法政大学文学部第二部日本文学科に入学、その年の11月、天野祐吉と島森路子が中心であった「広告批評」(マドラ出版)が開校していた広告学校に入った。その年、コピーライターを経てエッセイストとして売り出した「林真理子みたいになりたい」という動機だった。当初ナンシーは「広告学校に3ヵ月通えば、仕事の世話をしてくれるもの」と思っていた。

自分の得意技「消しゴム版画」を武器に

 広告学校の同級生からコラムニスト・えのきどいちろうを紹介され、彼を通じて当時講談社「ホットドッグ・プレス」の若い編集者であったいとうせいこうと出会った。小さなイラストを発注してくれたいとうは、関直美にペンネームをつけてやって欲しいというえのきどの頼みに気軽に応じ、ペーター佐藤とかスージー甘金とか国籍不明のペンネームがイラストレーターに流行していた折から、直美の「ナ」をとってナンシー関はどうかと提案し、その場で決まった名前で彼女は生涯をすごすことになった。

2021.12.11(土)
文=関川 夏央