虚を衝かれたナンシーは書いた。

〈 私はその友人に憧れた。「フジテレビの27時間テレビ」なんていう、人間にとって人生にとって本当に瑣末なことに惑わされないという正義。27時間テレビのことをふと思ってしまう私は、何と情けない人間なんだろうか

「何ソレ?」と言える人間に憧れながらも、「何ソレ?」で済ますわけにもいかないという、この、何というのか、人間の業?(半疑問形)どうでもいいか

(「週刊文春」99年7月29日号)〉

運転免許を3年かけて取る

 1995年、ナンシー関は目黒区祐天寺にマンションを買い、妹との同居を切り上げた。買うにあたって、頭金は出せるけれど内装をあたらしくする資金がないから貸して、と田舎の母親に電話した。直美ちゃんのお嫁入りのために貯金してあるから大丈夫、と母親はいった。するとすぐに、銀行が貸してくれることになったから、もういい、と連絡があった。すでに彼女の実績と知名度が「信用」になっていたのである。

 そのマンションに住んだ彼女はほとんど引きこもり状態でテレビを見つづけ、原稿を書きつづけた。原稿のあがりは遅かったが、一度も落としたことはなかった。

 ナンシーの体重は増えた。というより、古い友人には体積が倍増した印象だった。体重は高校以来量ったことがない。90年代半ば以降には、たまに外出すると20メートルから30メートル歩くごとに電柱につかまって休んだ。それでもタバコはやめず、1日にショートピースを2、30本吸った。酒席では人の3倍くらい飲んだ。

 

嫌っていたカラオケも好むように

 運転免許を取りたがったのも、歩くのがつらかったからだろう。

 98年春から個人レッスンについた。個人レッスンを始めて試験場で合格するまで、いちばん短くて2ヵ月、平均6ヵ月だというが、ナンシーの場合、それではおさまらなかった。週2回の練習ということで始めたが、それが週1回になり、1年後には月1回になった。それでも2000年には熱心さをやや取り戻し、その年の秋、1回で仮免試験に受かった。

 本試験は2001年4月、3回目で合格した。教習300時間、3年かけて免許を取った人は初めてだ、よくあきらめなかった、と1000人以上に教えたチューターはナンシーをほめた。合格するとすぐにドイツ車のゴルフを買い、ベテランのドライバーと同乗してだが、箱根に出掛けた。

 以前は嫌っていたカラオケも93年頃からは好むようになっていた。ある夜、いとうせいこうが銀座のカラオケボックスから、作家の宮部みゆきといっしょにいるんだが、と電話をすると「駆けつけてきた」。そのときナンシーが歌った内藤やす子の「弟よ」は、宮部みゆきによると「ソウルがこもった」感じだった。

2021.12.11(土)
文=関川 夏央