研究や物語に乗せる思い
髙林 書き上げた際にはどんなお気持ちになるんですか? 達成感?
上橋 そうですね。すごくうれしいです。でも、脱け殻になったような、頼りなさというか、恐ろしさも感じます。次が書けるかどうか、まったくわからないので。さっき、お話ししたように、私は書き上げたものを読んでみると、自分で書いたとは思えないんです。どうやって書いたのか、その過程がよくわからない。その過程が逐一明確にわかっていたら、次も同じようにやればいいと思えるのでしょうが、私の場合は、自分が書いた過程がよくわからないので、次も同じように書けると思えないので、とても怖いのです。
髙林 私は『獣の奏者』でエリンが迎えた結末に衝撃を受けたのですが、プロットを綿密に組み立てて書かれるわけではないということは、上橋先生自身も思いがけないラストシーンにいつもたどり着いているのでしょうか?
上橋 うーん、それも、なかなかお伝えするのが難しいのですが、私の中には、ぼんやりと全体のイメージはあるようです。でも、それは具体的な筋立てではないのです。飛び石の話でお話ししたように、書いていくうちに、物語が成りたい姿というか、行くべき方向のようなものが見えてきて、しかも、これは、私の思惑ではコントロールできないところもある不思議なもので。『獣の奏者』の場合も、私はなんとかして、あの結末ではないところに向かわせたくて、実は、様々、別の筋道を書いてみたのです。でも、ダメでした。どうやっても、あの世界の、あの状況の中で、成立していく道は、あの道になっていく。あの試行錯誤の経験は、私に、物語自体がもつ物語の姿がいかに強固なものであるかを教えてくれました。「こうありたい、こうあれたらな」という気持ちで描いていくのですが、「どうしても、そうなってしまう」時というものもあるんです。
髙林 なるほど。そういうものなのですね。

高校生 先生方は作品や論文を発表される際、どんな思いをのせて読者に届けているのでしょうか?
髙林 『獣の奏者』で、「南部の湿地に棲むガリョという水棲のドクトカゲの性別は、卵が浸かっている水温で変わる」という短い記述が、エリンが昔に読んだ書物の中にあって、彼女はそれを見逃さずにいて、謎を解き明かしていくところがありますよね。研究者にとっても、これはとても大事だなあと。つまり、発見したことは、誰でも読める論文にして発表しておくことが大事だと思います。研究者にとっては、ある現象の発見と、それを発表したことが誰かの研究などに役に立ったりする、というのはとてもうれしいことです。過去に発表した論文が今でも引用されているのを見るとやっぱり心が弾みます。

上橋 私は、子どもの頃に味わった、大好きな物語に出会った時の無上の幸せの感覚が、いまも心の中にあるのです。読んでいる最中は本当に幸せで、読み終わった時には、それ以前の自分とはちょっと違う空気を吸って、世界を少しだけ違う目で見ることができた。これは、本当にすごいことだと思います。拙著を読んでくださった方に、わずかな時間でもそう感じていただけて、「ああ、面白かった! 読んでいる間、幸せだったな」と思っていただけたら、うれしいです。
最初の1ページから最後の1ページまで読み終えた時にしか訪れ得ないもの、テーマよりも何よりも、物語全体が生み出す命のようなもの。そういうものが私には大切なんです。ですから、そういうものが宿る物語になっていたらいいなと思いながら書いています。
構成:岩嶋悠里
撮影:深野未季
上橋 菜穂子(うえはし・なほこ)
1962年東京生まれ。文学博士。川村学園女子大学特任教授。作家、文化人類学者。89年『精霊の木』で作家デビュー。著書は『精霊の守り人』をはじめとする「守り人」シリーズ、『狐笛のかなた』、『獣の奏者』、『鹿の王』、『香君』、『隣のアボリジニ』、『明日は、いずこの空の下』、医学博士・津田篤太郎との共著『ほの暗い永久から出でて 生と死を巡る対話』など多数。野間児童文芸賞、本屋大賞、日本医療小説大賞など数多くの賞に輝き、2014年には国際アンデルセン賞作家賞を受賞。20年、マイケル・L・プリンツ賞オナー、23年、吉川英治文庫賞を受賞、24年、菊池寛賞受賞。
髙林 純示(たかばやし・じゅんじ)
1956年神戸市生まれ。京都大学名誉教授。農学博士。1987年京都大学農学部付属農薬研究施設助手、オランダ農科大学ワーゲニンゲン研究員、京都大学農学研究科准教授、京都大学生態学研究センター教授、同センターセンター長を務めた。2000年、日本応用動物昆虫学会賞、22年、日本生態学会賞、23年、日本農学賞を受賞。著書に『寄生バチをめぐる「三角関係」』(共著、講談社)、『共進化の謎に迫る』(共著、平凡社)、『植物が未来を拓く』(共著、共立出版)、『生物多様性科学のすすめ』(共著、丸善)、『プラントミメティックス』(編集委員・共著、NTS)、『虫と草木のネットワーク』(東方出版)、『植物の多次元コミュニケーションダイナミクス』(監修・共著、NTS)など。


香君1 西から来た少女
定価 792円(税込)
文藝春秋
» この書籍を購入する(Amazonへリンク)

香君2 西から来た少女
定価 792円(税込)
文藝春秋
» この書籍を購入する(Amazonへリンク)

香君3 遥かな道
定価 792円(税込)
文藝春秋
» この書籍を購入する(Amazonへリンク
2025.03.07(金)
文=上橋菜穂子、髙林純示