ふっと謎が解ける瞬間

髙林 上橋先生の作品からは推理小説のテイストも感じるんです。『香君』でも『獣の奏者』や『鹿の王』でも、主人公が1を聞いて100を知るみたいな推理の場面がありますよね。そのロジックがすごく正確かつキレキレで、「ああ、そういうことね」と読んでいて気持ちがいい。そうした会話の流れも書きながら自然と見えてくるのでしょうか。

上橋 それも、なんとも説明しがたいことなのですが、私自身、自分がどうやって、ああいう会話の流れを思いついているのかを知りたいんです(笑)。本当に、自分でもよくわからないんですよ、どうやって思いついているのか。なので、後から、自分が書いたものを読むたびに、誰が書いたんだろう、これ? と思います(笑)。ただ、物語を書いているときは、日常生活の中で、何をしていても、頭のどこかに物語があるせいか、ご飯を作っている時や、お皿を洗っている時などに、頭の中に、ふいにある光景が浮かんできたりするんです。『香君』の最初の方で、アイシャがマシュウに「……あなたは、リタラン?」と聞くシーンがあるんですが、あれも、お皿を洗っているときか何か、家事をしていたときに、その光景が頭に浮かび、アイシャの「あなたは、リタラン?」という声が聞こえて、リタランって何? と思いました(笑)。

髙林 何となくわかります。研究でも、お風呂で頭を洗っている時に「あ、こうなんかな?」とふっと謎が解けるというか、合点がいったりすることがあります。潜在意識のなかで考え続けているからなのでしょうね。

上橋 あ、やはり、先生も、そういうこと、あるのですね! ずっと考え続けて頭の中にあった何かが、いきなり明確な何かになるというか、先に何かが閃き、そのあと、なんでそう思ったのかを考える感じで、私の場合、アイシャの声が聞こえて、リタランとは何かを考えたとき、自分の中にあるマシュウのイメージの中にあったものが見えてきて、話が動いていきました。

髙林 いきなりシーンが浮かんで、次に思考がやって来るんですね。

上橋 常にそう、というわけではないのですが、そういうことがありますね。「ああ、そうか、マシュウはそういう男だから、こういうものを持っているのだ」と知っていく――そういう感覚です。

高校生 上橋先生は文化人類学において、「絶対的な他者」を研究されているのかなと思います。その他者性はきっと乗り越えることができないものだと想像するのですが、物語を書く上ではどうでしょうか? ある一人の人物に没入して、その視点から見た世界を描いているのか、その時々に出てくる人物に合わせて視点を変えているのか。

上橋 それは、すごくいいご質問ですね。ありがとうございます。物語を書いている最中、私は常に様々な人間になっているようです。『香君』でいえば、アイシャだけでなく、マシュウにもオリエにもなっている。自分ではとくに意識していなかったのですが、それに気づかされた出来事がありました。『精霊の守り人』のアメリカ版の翻訳の際、アメリカの出版社の担当編集者から、「ここはヘッドジャンピングだ。気持ちが悪いのでやめてほしい」と指摘された箇所がいくつもあったのです。数人が同じ場面を見ているようなときに、誰かの気持ちを書き入れてしまうと、英語では、いま自分が見ているものから、突然、別の人の頭の中に入って、別の目で見ているような感じになって、乗り物酔いを起こしたような、なんとも気持ちが悪い感じになると言われたわけです。私の本をいつも英訳してくださっている翻訳家のキャシーさんと、これは、すごく面白いね、と盛り上がりました。

髙林 英語の場合は主語が決まっていて、ロジックが日本語より厳密ですからね。視点が固定されている。

上橋 そうなんです。日本での生活が長いキャシーさんは、日本語で私の本を読んだときは、あまり違和感を覚えなかったそうですが、主語を明確にする英語に直してみたときに気づいたそうで、アメリカ版の編集者からの指摘で初めて気づいた部分もあったそうです。日本語でも、視点の統一は大切なのだと思いますが、私はどうも、頭の中から滑り出てくるままに書くと、そうなってしまっているようで、常に複数の人々になっているのでしょうね。翻訳作業の中で指摘されて初めて気が付いた、面白い出来事でした。

2025.03.07(金)
文=上橋菜穂子、髙林純示