世界中で新作が待たれている作家・上橋菜穂子さんの最新作『香君』が、2024年9月ついに文庫化。子どもの頃から上橋作品の大ファンという文芸評論家の三宅香帆さんが『香君』を読み、その想いを綴ってくれました。


 なぜこんなにも鮮やかに物語の世界を立ち上げることができるのだろう、と上橋さんの綴る世界のなかに入るたび、思う。

 私が上橋菜穂子さんの作品にはじめて出会ったのは、本当にまだ物語の世界に出会ったばかりの頃、「小説家」という人がこの世にいるかどうかもしっかり分かっていない年齢だった。その時、上橋さんが見せてくれた世界は、ほかのどんな物語とも違っていた。この世界はたしかに存在している、と子どもだった私に確信させるだけの感触がそこにはあった。ページをめくりながら私はあの世界の匂いを嗅(か)いだし、痛みの輪郭を触ったし、めくるページの隙間にその世界を見ていた。『精霊の守り人』も『獣の奏者』も『鹿の王』も――挙げはじめたらきりがないが――上橋作品は、いつだって私を、鮮やかな世界へ誘(いざな)ってくれたのだ。

三宅香帆氏(撮影・小石謙太)
三宅香帆氏(撮影・小石謙太)

 そして『香君(こうくん)』で、久しぶりに上橋さんの創り上げる世界に入り込んだとき、私は圧倒された。自分が大人になってもやはり、上橋さんの提示する世界には、五感に響くような美しさがあったからだ。

 主人公のアイシャは、誰よりも「香り」を読み取ることができる少女。彼女は、植物、昆虫、人間などのさまざまな「香り」を嗅ぐことで、その香りがもつ声を聴くことができる。しかしアイシャの住む国は、稲で栄える国であるにもかかわらず、虫害に悩まされていたのだった。……つまり、農業と国家の問題に「香り」という力でもって立ち向かう少女が描かれた物語なのである。しかしなにより驚くのが、本作を読んでいると、どこかで本当にその香りが嗅げるような、アイシャが隣にいるような実感が得られることだ。私たちはアイシャを通して、植物の、虫の、土地の匂い立つ香りを知る。そんな小説、ほかにはない。

2024.09.15(日)