『香君』は、ふいに浮かんだ光景から生まれた
髙林 『香君』についてもお聞きしたいですね。あの作品がどう生み出されたのか知りたいです。あとがきでは「ふいに香りを感じている少女の姿が見えて、『香君』というタイトルが頭に浮かんだ」と書かれていますよね。
上橋 そうなんです。ある時突然、少女がいる光景が頭に浮かんで。彼女は暗い石造りの塔の中にいるんですが、窓が開いていて、その向こうには明るい自然の風景が見えている。ふわっと風が吹いてきて、少女の髪を揺らしている。ああ、いま、この少女は、この風の中に、様々な生き物のやり取りを感じている、と思ったんです。

髙林 そのシーン自体は作中に登場しませんよね?
上橋 はい。ただ、その光景が物語全体のイメージをくれたんです。物語の内容ではなくて、物語の佇まいというか、印象のようなものです。書いている最中は、アイシャの声が聞こえて、彼女の体温やにおいも感じています。見えて、聞こえている状況をデッサンするようにして書いているのです。なので、書き終わった後に編集部から「地図を描いてください」とリクエストされることが、いつもすごく怖いです(笑)。
髙林 と言いますと?
上橋 そのとき見えた通りに書いているので、地図を描くためには、ひとつひとつ思い出しながら検討しなければならないので。例えば、ある場面を描いていたとき、どのくらいの時間帯で、陽の光がどの方向から射していたかなどを思い出して方角を考えたり、馬でどれくらいの時間を走ったかで距離を割り出したり、そういうことを手掛かりにするわけですけど、私、すごい方向音痴なんですよ。なので、あれ?? この方角だったっけ? とか、頭を抱えることが多くて(笑)。
高校生 アイシャのにおいすら感じる……というお話でしたが、先生も鼻がよいのでしょうか?
上橋 私、鼻はよくないです(笑)。でも、ミステリーやSF作品もそうですが、自分にはわからないことでも、想像で書くことはできますよね。ただ、『香君』の場合、私たちがいま生きているこの世界で、生き物がかおりでやり取りをしている、ということに心を動かされて書き始めた物語でしたから、「かおりで繋がる生態系」の描写に誤りがあってはいけない、と思って、物語を書き上げたあと、髙林先生をはじめ、様々な分野の専門家の方々に原稿を読んでいただいたり、オンラインで教えを乞うたりして、描写に違和感がないかなど、教えていただきました。

髙林 ファクトチェックは入念に行われたのですね。
上橋 そうですね。においに限らず、地形がおかしいとか、そういったことがないようにしたいと思ってチェックしました。面白いのは、フィクションとして書いたつもりのことが、現実の世界にも似たようなことが実際にあると知って、驚くこともあることで、例えば、この間、髙林先生が、いきなりメールをくださいましたよね? あの「アイシャがいました」というメール。
髙林 ああ、「『探偵! ナイトスクープ』という番組にアイシャが出ていました」というものですね(笑)。8歳の女の子なんですが、目をつぶっていても、目の前の友達が誰だか全部わかると。まさしくアイシャだ! と思いまして。
上橋 何週か遅れでこちらでも放送されたその番組を見て、私が作家としてすごく面白いなと思ったのは、その少女が言った「体の具合が悪い時にはにおいが薄く感じられる」という発言でした。私だったらきっと、体調不良になった時は「普段と違うにおいだと感じる」あるいは「いつもより濃く感じる」と描写する気がするんです。息から感じるにおいが強くなるとか。でもそうか、薄く感じるのか! と、驚きました。そういうところに「私の想像」では描けない「リアル」が見えて、本当に面白かったです。
2025.03.07(金)
文=上橋菜穂子、髙林純示