新人でも担当大学はもつことになるので、大学によって取材のクオリティーに差が出ないように、ある程度キャリアのある先輩が取材希望として手を挙げて一緒に行くのも暗黙の了解ですね。過去に私は、後輩にいいところを見せようとして、いつも「一緒に行くよ」と言っていたら、最終的に取材をした人数が数十人にも膨れ上がってしまって、取材リポートを完成させるため締切ギリギリまでひたすらパソコンを打ち込むことになった年もありました(笑)。イメージとしては、選手1人につきA3用紙がびっしり文字で埋められているくらいの量ですから、40人を超えた年は、提出してしばらく魂が抜けた状態になっていました(笑)
今はもちろん取材のリポートはパソコンでまとめますけど、昔の取材リポートは手書きで、読むのも書くのも大変でしたよ。取材アナの個性も出るもので、簡潔に過不足なく要点をまとめたものもあれば、ストーリー仕立てで選手の人となりが全てわかるようなものもあります。とにかくどんな形であれ、完成した取材リポート(資料)は中継アナウンサー全員で共有しますので、自分が取材で集めた情報が日本テレビ中継全体の財産になるわけです。
100取材したうちの2つか3つでも放送に……
――長年ご自身が箱根駅伝と関わってきて、特に印象深かったシーンや取材はありますか。
町田 私が入社したころに言われたのは、「取材したうちの二割から三割を放送に出せればいいほうだよ」ということでした。でも実際に入社して1、2年目はサブアナウンサーとして、声を出すことはなく先輩アナウンサーを隣でサポートし、3年目で実況を担当するようになると、言われていたことは噓だということが分かりました(笑)私の感覚でいうと100取材したうちの2つないし、3つくらいが放送に出せればいいという感じですね。
「もっと取材をしておけば良かった」と思うこともあれば、「あのとき聞いておいて良かった」と思うこともあります。2011年の第87回大会にむけて上武大学を取材したときは、4年生の地下(ぢげ)翔太選手から卒業後の進路について「地元の村役場に就職します。箱根は競技人生の集大成であり、これからの人生のスタートラインです」ということを聞き出していました。迎えた大会当日、最初で最後の箱根となった地下選手はアンカーを任され、19位ながら力を振り絞って走る姿が映しだされたんですね。
2024.11.22(金)
文=町田浩徳