水を買ってきてやることも、背中をさすってやることも、なにもできないのがはがゆい。
「あと一枚か。そういえばこんな昔話があったな。坊主が山姥につかまって、三枚のお札を使って和尚さんのところまで逃げ帰るっていう……」
いつのもくせで一人で喋っていると、妙な音が近づいてきた。
カツカツカツカツ、とこちらへ走ってくる。嵯峨野がぎゅっと躰を縮めた。
俺はハッとして植え込みを飛び出した。ちょうど向こうから奇怪な動きのハイヒールの女……のようなものがやってきたところだった。女は耳まで裂けた牙だらけの口をにっこりさせて、俺を見る。しかし、俺の脇を素通りし、植え込みに顔を突っ込んだ。
「ひっ……!」
嵯峨野の悲鳴。がさがさと植え込みが動く。
女は手にビスケットを掴んで、踵を返していった。
最後の一枚が消えた。
今のは……そうか、俺の声が呼んでしまったのだ。
霊には俺の声が聞こえる。
だが、逆を言えば「俺の声は幽霊の注意を引くことができる」というわけだ。それならばやりようはある。
思っていたより早く、嵯峨野は立ち上がった。
「ここにいても仕方ない。帰るんだ……!」
さらに、彼は強い声で呟く。
「僕は……絶対に本を出すんだ。出すって約束したんだ。そのためにも、帰るんだ……」
彼の気持ちは痛いほどわかった。
俺だってデビュー前は、生涯たった一度でもいい、自分の本が出せるならなんでもする、と思っていた。
俺は先んじて上空を飛んだ。
道の先をうろつく幽霊がいたら、飛んでいって騒ぐなり歌うなりして注意を引き、嵯峨野のいない方へ誘導した。
「いける、これなら……!」
嵯峨野は隠れ潜みながら進んでいった。あんなに恐い目にあったにもかかわらず、その瞳は勇敢で、さっきも感じた通り、物語の主人公のようだった。
俺はいつしか嵯峨野とバディのような気になっていた。向こうには自分のことは視えていないのだが、なんとか彼を無事に家に帰すのだという使命感が湧いていた。
2024.10.29(火)