嵯峨野は足音を殺して、走った。

 気づけば辺りには夜の帳が降りていた。

「とにかく大きな通りに出よう。タクシーを拾えば……」

 だが、次の角を曲がった瞬間、わずか一メートル先の街灯の下に、現れたのだ。まるでスポットライトの下に佇んでいるみたいだった。

 ステレオタイプの、白いシーツを被ったようななにか。

 ふー、ふー……という呼吸が聞こえる。脚は……ない。その場に浮かんでいた。ただし、モチーフ化されたキャラクターとは違い、布の裡に明らかな肉の気配を感じた。

 硬直した嵯峨野に向かって、それは振り返る。布に空いた小さな二つの穴から、瞳が見えた。嵯峨野は目を逸らして脇を通り過ぎようとする。しかしそれは嵯峨野の背中にぴったりとついてきた。

 そして頭にキンとくる不快な声で喋った。同じ言葉を何度も、何度も、何度も。

 おそらく、さっきの鹿も言っていたあの言葉だろう。しかし嵯峨野が震えるばかりで背中を向けたままでいると、白い布の裾がはためいて、むわっと濃い鉄の匂いがした。

 上空から見下ろす俺ははらはらしながら「もう無理だ、早く渡せ」と叫ぶ。

 それは裾を大きく開いて、嵯峨野の頭に覆いかぶさろうとしていた。嵯峨野はようやくビスケットを取り出しながら振り返る。

 その瞬間、嵯峨野は叫んだ。

 布の中身に目を釘づけにして。

 上空にいる俺には見えない。

 彼の美しい顔が歪む。その手からするりとビスケットが抜けて、布のなかに消える。

 白い布は風に吹かれて飛び上がる。俺の脇をけたけた笑いながらすり抜け、振り返ると消えていた。

 嵯峨野は口を押さえてその場に吐いた。


 嵯峨野は空き家の植え込みの陰にしゃがんで休んでいた。持っていたチラシ入りのポケットティッシュで口をぬぐい、肩で息をしている。ちなみに彼のスマホはなぜか取り出した瞬間、電池切れになってブラックアウトしてしまった。

 助けは呼べない。

 隠れているあいだも、何度かおかしなものが目の前の道を通っていった。

2024.10.29(火)