聞こえも触れもしないのに、俺は両手で彼のブルゾンのポケットに手を突っ込みながら叫んだ。すると……鹿のほうが反応した。
鹿は嵯峨野のポケットに鼻先を突っ込み、プラの包装の端を咥えて引きずりだす。
そういえば、さっきも俺の声に反応していた……と今さら気づく。
「あ、あ……ああ! 『トリック・オア・トリート』ですね。えと、袋、開けます、か……」
嵯峨野は震える手で包みを破く。その瞬間、鹿は彼の手まで持っていきそうな勢いで、ビスケットにかぶりついた。
ばきばき、ばりばり。
がしゅがしゅがしゅむちゃむちゃむちゃ……。
袋ごと激しく咀嚼する音が夕空に響いた。
嵯峨野は長細い脚の檻から這いだし、走ってその場をあとにした。俺も飛んで追いかける。
宙で振り返ると、真っ白い怪物は地面に落ちたカスを夢中で舐めとっていた。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……!」
遠くまで走ってきた嵯峨野は肩で息をしていた。飛び疲れた俺も、郵便ポストの上で息を整える。
「パ、パフォーマンスかな……?」
嵯峨野は己に言い聞かせるように何度も頷く。
「人が、入っていたんだよね?」
どうやって首を伸ばしたんだ。それに顔も見る間に変わっていったというのに。
彼の前髪は濡れて光っていた。よだれだ……。本人は気づいていないだろうが。
嵯峨野はしゃがんでポケットから二枚のビスケットを取り出した。
「あと、二枚……」
嵯峨野は辺りを見回す。無我夢中で逃げてきたせいで本来の帰り道から外れてしまったようだ。タクシーも通らない……というか、やけに人が少ない。
嵯峨野も異変に気づいたようで、唾を飲む。遠くに、ぼんやりとした人影が見えた。
文字通りの“影”だ。顔のない紫のぼやぼやしたものが、手にぼんぼりを持って柳の下を歩いている。
嵯峨野は急いで反対方向へ逃げ出した。俺は上空へ高く飛ぶ。この時間帯にしてはやはり人が少ない。そして、あちらこちらに奇妙なものの姿があった。
2024.10.29(火)