「ごめんな、市柳」

 あいつも色々鬱屈しているからと、去り際に囁いた雪馬の声は、ずっと市柳の心に残った。

 ――でも、市柳も気を付けたほうがいいよ。俺達って、俺達だけの体じゃないから。

「好き勝手は出来ないってことだよなあ……」

 いてて、と声を上げる。

 市柳は昼間の試合のために残されていた傷薬を借り、講堂の広縁で傷の手当をしていた。

 間違いなくわざとだろうが、見事に、服の下に隠れる場所にしか打撃は与えられていなかった。自分とは全く違う方向ではあるが、明らかに慣れた手口である。

 それだけでもこれまで垂氷の兄弟が辿って来た道が知れるようで、怖いとか、悔しいとかいう思いがある反面、なんだか可哀想な気もするのだった。

 参道の方からは、賑やかな音楽と人の笑い声が聞こえている。

 あいつがその気になれば、今日の試合だって順位は大いに変動したと思えば、浮かれて遊びに行く気もそがれてしまった。

「あああ、ちくしょう!」

 叫んで、広縁で大の字になる。

 喧嘩では容赦なく手が出るし、貴族らしからぬ罵倒は絶えない家族ではあるが、今更ながら、自分の家は本当に恵まれていたのだなと思う。

 よし、勁草院へ行こう。

 そうすれば、きっと家族は喜んでくれるはずだ。それにそうすることが、きっと雪哉の奴が言う「責任」を果たすことになるのだろう。

 ――それに、まあ、雪哉は勁草院には行かないって言っていたし。

 とりあえず、『風巻の虎』を名乗るのはもう止めよう、と思った。


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2024.10.22(火)