「いいか、よく聞け市柳。僕は兄上の座を奪うつもりなど欠片もないし、将来は勁草院にも、中央にもいかない。一生、兄上の下でひたすらに働くつもりだ」
これまで、僕がどれだけ心ない邪推に苦労したと思っていると、そう語る雪哉の顔はどこか苦しそうに歪んでいた。
「兄上を立て、そんな野心はないと公言して、やっと落ち着いてきたってのに……。ただでさえ僕の中央行きで不安定になっているところに、お前のいいかげんな一言をぶち込まれて、それも今日一日でパーになった」
「ご、ごめん――」
「別に、謝ってくれなくて結構ですから。ほら、立ってくださいよ市柳さん。僕に稽古つけてくれるんでしょ?」
言いながら、雪哉は順刀を一閃させる。
転がってそれを避け、這うように逃げる市柳を、雪哉はけらけら笑いながら悠然とした足取りで追って来る。
「蚯蚓みたいに地面でのたくってないで、さっさと立てよ」
立てるものならな、と心底楽しそうに雪哉が叫んだ、その時だった。
「やめろ、雪哉!」
悲痛な声と同時に、閉め切られていた引き戸が開いた。現れた蒼白な顔の雪馬の前で、順刀を振り上げた状態で雪哉が固まった。
「兄上」
「もういいだろう。市柳だって、悪気があったわけじゃないんだから」
急いで、ここを探していたのだろうか。雪馬の額には汗が浮かび、肩が大きく上下していた。そんな兄を前にして、雪哉は少し考えるように視線をめぐらせると、ゆっくりと順刀を下ろした。
「それは、命令ですか?」
「何?」
「兄上の命令ならば、従います」
じっと見つめあう二人を、市柳は祈るような気持ちで見守る。しばしの後、雪馬は、どこか悲しそうに口を開いた。
「次期郷長である、僕の命令だ。やめなさい」
「分かりました」
順刀を放り出した雪哉は、そのままくるりと振り返ると、まるで屈託のない笑みを浮かべた。
「ないとは思いますが、もし垂氷に悪意ある行為を志すことがあるならば、十分にご注意下さいね。その時は、全身全霊をかけてこの僕が、あなたのお相手つかまつりますよ」
2024.10.22(火)