「AIによってキレイな映像が簡単に作られるようになってきているから、こういう人間が描く線に活(い)きがあると思います。AIが人間のまねをして下描き線を再現したとしても、それはただのデザインになってしまう。それは偽物です。人間が描くからこそ意味がある線なんです。こういうことができるのは、今が最後かもしれないけど、それにこそ価値がある。」MANTANWEB(ルックバック:AIでは表現できない線 人間が描く意味 押山清高監督インタビュー(2))
これからは3DCGだ、とディズニーがアニメーターを解雇した21世紀初頭のように、これからは生成AIで絵が描かれ、手描きの絵などいらなくなるのだ、と叫ぶ人たちもいる。アニメーション映画が次々と巨大な興行収入を上げるのを見て巨大商社をはじめとする資本がアニメ制作に参入する報道が続くが、才能あるアニメーターたちは金だけでは引き抜けない。
宮﨑駿から押山清高に至る、日本アニメの絵の才能の集積を生成AIでコピーして無断利用することができれば、代価を払わずに巨大な利益を上げられると夢見る企業もあるのだろう。だがおそらく、それでも人間が絵を描く文化、それを人間が見る文化はなくならないだろうと感じる。
絵を描くという「魂のスポーツ」
押山監督がインタビューの中で語る言葉は、映画の内容とも深くリンクしている。映画の中で、小学生の藤野は学級新聞に掲載された京本の絵に出会い、衝撃を受ける。まだ顔も見たこともない登校拒否の同年代の少女をライバルとみなして猛練習を重ねる藤野の姿は、まるで絵を描くことで魂のスポーツをしているように見える。
そしてこの「魂のスポーツ」の感覚は、映画パンフレットの中で「同い年の絵描きは気になってしまう」と語る藤本タツキはじめ、多くの絵描きが共有する感覚だ。
おそらく人類の歴史上、今ほど多くの人間が絵を描く技術を持ち、そして絵を解釈する鑑賞眼を持った時代はなかったのではないかと思う。ほんの100年前なら日本人のほとんどは絵など描くひまもなく生存に追われていた。だが今は、何十万人と言う人間が絵を描き、何百万人が手元のスマートフォンでそれを見る時代がやってきたのだ。
藤野が京本の絵に出会い衝撃を受けたように、絵を描くという行為は技術を競うスポーツであると同時に、巧拙や上下をこえて互いの心に触れる対話、視覚の共通言語でもある。今や絵を描くことはインターネットを通じて世界に広がり、はるか遠くの国の少女や少年を時には競うライバルとして、時には絵という共通言語で心を通わせる友人として結ぶ時代が来るかもしれない。『ルックバック』はそうした絵描きの大航海時代に、世界に向けて公開される「絵描き讃歌」となる。
2024.08.24(土)
文=CDB