幼いころから両親と離れていたため、親の愛情に恵まれて育った訳ではなかった鄭成功。それだけに、二世、一世の関係である妻や子ができたことにより、いろいろな考え方が変わっていく。しかし、実の親である海神との関係は凄惨を極めるものになる。明を滅ぼした清への服従を迫られ、剣を交えるにいたるのだから。両者の運命やいかに?

 先の橋本の本によると、近松門左衛門の作品の特徴は、「非情を語ることによって、そこに存在するはずの情を暗示する」ところにあるとする。まさにその通りのシーンだ。近松的にいくと、この本のクライマックスここにありと思うのだが、著者の川越宗一は同意してくださるだろうか。

 もうひとつ付け足しになるが、浄瑠璃でよく出てくる筋立ては、「○○、じつは△△」というものだ。たとえば、凡庸なおやじが、かつては源氏の強者であった、とかいうようなことが明かされ、物語の最後で「え~、そうやったんか!」と驚かせてくれたりする。『海神の子』では、鄭成功の「父」、鄭芝龍の存在がそれに似たところがある。序章――元々は川越にとって初めての短編だった――で解説されているので、どんでん返しという訳ではないけれども、その設定が意外すぎる。最終的には三人の「鄭芝龍」が登場することになるのだが、こういったひねりがなければ、全体の面白みがずいぶんと減じてしまっていたことだろう。あるいは、名と実の違いといったものがこの本の隠れたテーマであるのかもしれない。

 スペクタクルばかりを強調してしまったけれど、この小説の本題はそこにない。国姓爺・鄭成功がどうして海賊として海に生き続けたか、である。国姓を賜るシーンでは、親と決定的に対立してまで新帝に据えた隆武帝、唐王・朱聿鍵に「朕を扶け、国家を安んぜよ」と命じられる。その時、心によぎる言葉、

「自分の周りには、誰もいない。中華の皇帝、数多の朝臣、蛟、鄭家の者たち。どれだけいても、ひとりだ」

2024.08.10(土)
文=仲野 徹(生命科学者・大阪大学名誉教授)