一向に上達しないのだけれど、この十年ほど、文楽の語りである義太夫を習っている。それもあってよく文楽鑑賞に赴くのだが、その折には橋本治の『浄瑠璃を読もう』(新潮社)をバイブルにしている。人形浄瑠璃の三大名作である『仮名手本忠臣蔵』、『義経千本桜』、『菅原伝授手習鑑』をはじめ、八つの代表的戯曲が紹介されている本だ。そのひとつが『国性爺合戦』で、橋本によると、この作品は「一貫してスピーディーな物語展開を見せる『アクションファンタジー大作』」ということになる。『海神の子』にもそのままあてはまる言葉ではないか。いや、それどころか、アクションファンタジー大作としては、そのスケールの大きさとリアリズムから『海神の子』に軍配を上げたい。

 浄瑠璃でよく描かれるのは、主従、師弟や夫婦・親子関係の大切さだ。「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世」と言われるように、最も重きがおかれるのは、前世、現世、来世の三世にわたるとされる主従関係である。だから、主のために切腹するとか、罪のない子を殺めるとかいうような無理筋の話がいくつもある。この小説でも、鄭成功を起点とした主従関係が数多く出てくる。そこには信頼があるだけでなく、憎悪があり、裏切りがある。信頼よりも裏切りの方が面白く読めてしまうのは私の性格が悪いせいかもしれない。とはいえ、海賊仲間たちとの大活躍、幼なじみとの友情など、つい『ONE PIECE』の主人公・ルフィを思い浮かべたりして、何だかうれしくなった。

 スプラッタムービーのような殺戮シーンが全編を通じてたくさん出てくる。字義どおりの血生臭い話は苦手なのだが、ほとんど気にならなかったのが不思議である。あまりに壮絶すぎるせいかもしれない。しかし、そんな中、科挙を受験するために教えを乞うた実在の人物、かつての明の高官・銭謙益の存在は心を和ませてくれる。師弟というのも主従と同じく三世の仲であるから、その関係は深い。おそらくは創作なのだろうけれど、ジャッキー・チェンの映画『酔拳』の師匠を好色に、そして、金に意地汚くしたような人物像が面白すぎる。さらに世知にも長けており、頭脳も極めて明晰だ。銭だけでなく、登場人物の造形がどれもユニークなのがいい。こんなことする奴おらんやろ~、と言いたくなるようなケースもなくはないが、その人物の生まれ育ちを知ると、そういった判断や行動もありかと納得させられてしまう。

2024.08.10(土)
文=仲野 徹(生命科学者・大阪大学名誉教授)