パズルのピースのような断片が集まり物語の全体像が見えてくると、押し込み先で殺人も厭わない凶悪な夜狐を率いているが、自分の中に絶対に譲れないルールを持っていて、そのルールに従って人助けをする時もあるお仙、邪魔者を消すなど強引な手法で筆頭家老の地位を手にしたが、権力に汲々とする虚しさを悟り愛する者のために戦う決意を固める宮内らが描かれることで、この世には、完全な悪も完全な善もなく、すべての人間は善と悪のあわいで生きているに過ぎないと明らかになってくる。

 ささいなミス、わずかなルール違反が見つかると、ネット上でバッシングによる炎上が起こるのも珍しくなくなったが、多くの人は正義感に基づいてネットで発信をしているようだ。ただ、その正義には個人の価値観以上の根拠はなく、分かりやすい、目についた対象を攻撃しているに過ぎない。悪の中に善もあれば、善の中に悪もあるとする本書は、すべてを二項対立で割り切り、過ちを許す寛容さを失った現代社会への批判が込められているように思えてならない。著者が、雖井蛙流平法の流祖・深尾角馬が、小さな揉めごとから農民の父子を斬った史実を紹介し、角馬の偉業だけでなく弱さも認めている半平を描いたのも、絶対的な善/悪はなく、愚かさを許せるようになれば人間として成長できるのは、いつの時代も変わらないと強調するためだったのではないか。

 宮内の危機を救いたいと考える人間が岡野藩の重臣に助けを求めるため国境を越えようとし、他藩のトラブルを持ち込まれるのを嫌う岡野藩が警戒を厳重にする終盤は、ヨーロッパの協定加盟国間の自由移動を許可するシェンゲン協定以前、鉄道にしても、自動車にしても国境を越える時に入国審査があった時代の国際謀略小説を彷彿させるサスペンスがあり、峠、国境を舞台にした設定が活かされていた。

 貧困に苦しみ、辛酸を舐めた逃避行の先に、大成功はしないが生活に困らないだけの収入があり、客を癒やし、客に感謝される茶店の経営者で満足している半平と志乃、そして政争に明け暮れ気の休まらない生活を送る虚しさに気付き平穏を求めるようになった宮内は、大金を稼ぎ出世をすればよい生活ができるという競争原理を根本から見直し、たとえ競争に敗れても衣食住が足り、趣味や余暇に興じられるくらい余裕のある社会を造ることと、新しい幸福の基準を創出し広める重要性に気付かせてくれるのである。

2024.07.18(木)
文=末國 善己(文芸評論家)