沙羅は、誰かが言ったことを鵜呑みにして、世界を分かったような気分には、けっしてならない。どんなことも自分の心に問い質しながら生きている。万葉との会話においても、沙羅の生きる姿勢が率直に物語られている。

「『好き』の種類っていくつあるんだろうね」

「さあ」

 佑月から「万葉が好きなのか」と訊かれた時、驚くほど自分の中に反発する気持ちがあった。佑月の意味する「好き」に自分の気持ちを収めたくなかった。

「こないだ青春はなぜ青いのかって訊いてたけどさ、一口に青っていうけど、いろんな青がある。それと同じだよ」

「……言葉って狭いね」

「狭い?」

「青って単語ひとつだと、それぞれの人がそれぞれの青を思い浮かべちゃうじゃん」

 言葉を狭いと感じる人は、意味の世界の広さと深みを知る人である。沙羅にとって語るとは、語り得ないことにふれることだった。語り得ないことの重みを確かめることだった。

 それは、彼女が本を読むときの理でもあった。読むとは言葉をなぞることではなく、言葉の奥に潜む意味を感じ取ることだった。

 あるところで沙羅は「意味」をめぐってこんな言葉を口にする。

「――(略)――当たり前だけどね。同じ言葉でも人によって意味とか重さとか、やっぱり違うんだよね」

 文字情報に重みはない。それは意味だけになる。情報化された言葉は花瓶のなかの花のように存在している。華美に見せることもでき、配列を変えることもできる。だが、けっして大地に根差すことがない。

 沙羅はそうしたものを信頼しない。言葉に対するときだけでなく、相手が人間のときも、彼女は自身の内なる法則に忠実であろうとする。万葉を信頼している根拠は、彼が自分の思いを深く理解してくれているという実感よりも、深い場所に根差そうとしている彼の生きる姿勢にある。あるとき、万葉は沙羅にこんなことをいう。

「本と木という字は似ているだろ。本がたくさんある場所はさしずめ森だ。森には森にふさわしい歩き方がある。森で木を探すのは宝探しみたいなものだ。本という宝を探すにはコツがいる」

 人は探しているものを見出す、といった人がいる。この人物はそういったあと、こう続けた。虚しいものを探していた者が虚しいものを見出したとして何の不都合があろうか。この人物は皮肉を語っているのではない。生きる現場を貫く厳粛な問いの本性をそのまま言葉にしているだけだ。

 ここでいう「宝」とは何か。それは珍しいものではなく、かけがえのないものの異名だろう。ある人にとってそれは有益な情報かもしれないが、万葉が探しているものはまったく質を異にするものである。彼が一冊の本に探そうとする「宝」もまた、語り尽くせない何ものかだった。自分にとっての読書という経験をめぐって、万葉は沙羅に次のように語っている。

2024.07.11(木)
文=若松 英輔 (批評家、随筆家)