湯気の立つ皿を目の前に置くと、仁はまたしても目を閉じて、鼻から大きく空気を吸い込んだ。
「良い香りだなあ。これはイタリアン?」
「それほどのもんじゃないけど、オリーブオイルとミニトマトに免じて、なんちゃってイタリアンってことで」
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仁はブロッコリーを口に入れ、改めて店内をぐるりと見回した。魚拓には釣った魚の種類と日付、本人と見届け人の名前が書かれている。
「ご主人、腕の良い釣り師だったんですね」
多少はお世辞もあるだろうが、仁の口調には尊敬が感じられた。
「ありがとう。褒めていただいて本人、草葉の陰で喜んでるわ」
「釣ったあとの魚はどうしてたんですか?」
「食べましたよ。みんなで酒盛りやる分は船宿でさばいてもらって、残りは家に持って帰ってきて、友達呼んで宴会やったりね」
「楽しそうだな。『釣りバカ日誌』みたい」
「そうそう、あんな感じ」
秋穂の脳裏にその頃の想い出が甦る。刺身は正美の担当、揚げ物とアラ汁を作るのは秋穂の担当だった。大仕事だが楽しかった。若かったせいだろう。あの頃はまだ、夫婦とも二十代だった……。
「良いなあ」
仁がふっと溜息を漏らした。その表情は妙に寂しげだ。
「あら、お客さんも釣り、やれば良いじゃない」
「ダメなんだ。乗り物酔いするから」
「そんなら、船に乗らない釣りもありますよ。渓流釣りとかフライフィッシングとか」
「詳しいんですね」
「門前の小僧。主人が好きだったから」
ふと見れば、ホッピーのジョッキは空になっている。
「お客さん、次のお酒、どうしましょう?」
「そうだな……」
仁はカウンターに置かれたメニューを手に取り、裏返した。表が一品料理、裏がアルコール類の品書きになっている。
内容はいたって貧弱だ。まずはホッピーとビールだが、ビールはサッポロの瓶ビールだけで、生ビールは管理が面倒なので置いていない。チューハイはプレーンとレモンとウーロン茶の三種類。そしてサントリーの角ハイボール、日本酒は黄桜本醸造の一合徳利と二合徳利のみ。ソフトドリンクの注文が来ることはまずないが、一応念のためにコーラとウーロン茶は置いてある。
2024.06.12(水)