コロナ禍前から半分隠居状態、同居の猫とも少々ディスタンスあり気味な関係。たまに出かけることもあるが、基本的にひとりで過ごす。事件と呼べるほどのことは何も起きない極めて平穏な日々。
そんな生活の中でふと見つけた「茶柱」のような、ささやかな発見や喜びを綴った、小林聡美さんの新刊『茶柱の立つところ』。
本書の中から、猫好きとして知られる小林さんが、猫への憧れを明かしたエッセイ「猫の毛皮」を特別に公開します。
猫の毛皮
ユニクロのセーターが何十枚も買えるくらいの値段のセーターを買ってしまった。
「買ってしまった」というくらいだから「やっちまった」という気持ちも少なからずあるのだろう。ここ数年、服を買うために店を渡り歩くのが億劫になってきているところに、新型のウィルスが流行してから人と会わない生活が続き、はっきり言って、もう、服、いいだろう、という気分で過ごしていた。久しぶりに足を踏み入れたきらびやかな百貨店の雰囲気に、逆上してしまったのか。こういうのもリベンジ消費というのか。店員さんも、うまかった。
「わ。ベイジュもお似合いでしたけど、このグリーンも、わ、すごくお似合いです」
「ホント。こういうグリーンはお顔がくすんでしまうかたもいらっしゃるんですけど、お客さま、お色が白くていらっしゃるから、ホント」
マスクをしたまま試着室の前で棒立ちの私を二人がかりで褒めちぎる。普段だったら入らない高級なお店だが、とにかく逆上していたので、陳列されたいかにも品物の良いセーターの前に立ち止まり、うっかりナデナデしてしまったのがこの顚末だ。逆上しているもんだから、そのうち褒めちぎる店員さんたちに勝負を挑まれているような気分になってきて、私の中のいらぬ負けん気が頭をもたげ、
「じゃ、グリーンで」
と、いっそ勝負をつけるようにギラリと財布からカードをだした。おかしい。明らかに頭がおかしくなっていた。そのセーターは確かに肌触りも良く、色も素敵で、まあ冷静に見たところ私に似合っているといえば似合っていた。しかしだ。いってみればたかがセーターだ。その金額は私の中では、セーターに支払う金額ではなかった。家に帰って袋を開けたら、そこには肌触りの良いきれいなグリーンのセーターが一枚、ただあるだけだった。年齢を重ねていくにつれ、自分の着たい服がなかなか見つからなくなり、もう、一体何が着たいのか、何が似合うのか、よくわからなくなっているところにきて彷徨う百貨店は、きわめて危険地帯だ。
2024.05.26(日)
文=小林聡美
写真=佐藤 亘
ヘアメイク=福沢京子
スタイリング=藤谷のりこ