この記事の連載

 コロナ禍前から半分隠居状態、同居の猫とも少々ディスタンスあり気味な関係。たまに出かけることもあるが、基本的にひとりで過ごす。事件と呼べるほどのことは何も起きない極めて平穏な日々。

 そんな生活の中でふと見つけた「茶柱」のような、ささやかな発見や喜びを綴った、小林聡美さんの新刊『茶柱の立つところ』

 本書の中から、小林さんのインタビューを担当されたライターさんが「この文章を読めただけで、この先も大丈夫だ、と思えました」という感想をくださったエッセイ「パンを買いに」を特別に公開します。


パンを買いに

 パンを買いに家をでる。目的はそれだけだ。

 近所に、週の半分しか開いていない小さなパン屋があって、またそのパン屋が人気で、ぼんやり午後遅めに出かけると、「売り切れ」の札がちんまりとぶら下がっている。お目当ては小ぶりな食パンだ。ややずっしりしていて、生地の香りが芳ばしい。小ぶりと言っても、ひとりで食べきるには一週間はかかる。お米も好きなので、朝ごはんに毎日交互に食べたとすると、次にパン屋に出向くのは二週間後ということになる。もちろんパンを二週間もその辺に置いていたらカビが生えるので、半分ほどスライスしてから冷凍庫へ。本当は新鮮なうちにむしゃむしゃ食べたいところだけれど、ひとりの食卓には少々辛抱が必要だ。多すぎて食べきれないとは、なんという贅沢な悩みだろう。

 子どもの頃、夕方仕事から帰った母親は、両手に満タンのスーパーの袋をいくつもぶら下げていた。五人家族は、その満タンの袋の中身をあっという間に平らげた。多すぎて食べきれない、ということはなかった。むしろ剝かれたリンゴの数で、きょうだい喧嘩が勃発するような油断できない食卓だった。

 ひとり暮らしをするようになって、自分の好きな物を好きなだけ食べられることは嬉しかったし、料理も、今思えばおままごとのようなものだったけれど、それなりにやった。けれど、売られている大抵の食材はひとり分の料理には多すぎて、使いきれず処分することもしばしば。その頃は、今より“もったいない”という概念が世の中的に薄かった気がするが、私も、食べ物を無駄にする後ろめたさはあったものの、その食材を上手に使いきる知恵はなかったのだった。というと、いかにも今は知恵がついたような言い回しだが、やっぱり知らないこと、やったことのないことがたくさんある。大好物だった母親の作る鶏の炊き込みご飯の作り方も知らないし、おはぎも作ったことがないし、キムチを漬けたこともない。それでも若い頃は、いつか誰かのために料理することになるのだ、と心のどこかで思っていた。それを当然の使命のようにも思っていて、美味しいものを作れるようにならなければ、という向上心もあった。食卓の原風景も五人家族の賑やかなものだし、自分にもそういう任務が将来やってくるのだ、と。しかし、そんな任務はやってこなかった。それはそれで、ちょっと物足りない気もするけれど、心理的にも肉体的にも楽でありがたいというほうが、今は勝っている。毎日毎日家族のために食事を作らねばならない暮らしを、もし、私が今していたら、絶対に寿命が十年は短くなっていると思う。

2024.03.30(土)
文=小林聡美
写真=佐藤 亘
ヘアメイク=福沢京子
スタイリング=藤谷のりこ