私は私のパンを買う
私は私のために料理をする。そこにとりわけ感情はない。お腹が空くから料理する。面倒くさい時はスーパーで買う日もある。けれども、たいてい味が濃くてお腹が疲れてしまう。やはり自分の味付けが体にあっているのだろう。といっても、最近は味付けなどと気取った単語を使うのも憚られるような、最小限の手間で作れるものばかりだ。朝のスクランブルエッグは、塩も使わない。バターの風味と卵の味で、十分美味しいことに気づいた。蒸し野菜や肉や魚も塩と胡椒くらいなもの。あれこれと調味料を使わないぶん、素材そのものの味や香りがよくわかる。それがいい。しゃぶしゃぶ用のラム肉をくるくる丸めて包んだだけの餃子もなかなかだった。手の込んだものは外食で、と決めて、家では徹底して簡潔に。ここ近年のコロナウィルスのせいで、家でひとりで食事する時間が圧倒的に増えたのも、この超簡潔料理に拍車をかけた要因といえるだろう。
かと思えば、おやつをわざわざ手作りしたり、果物をジャムにしたり、豆を煮たり、そういう作業はまったく苦にならないのだった。それらは言ってみれば余暇のようなもので、生命の維持に直接関係ないからだろうか。それに「こんなに砂糖を使うのか」とか「こんなに嵩が増えるとは」など、地味な発見があり、まるで実験をしているような愉しさだ。一応、既存のレシピを参考にはするけれど、要領がわかってくると、次は分量の配分に自分なりの工夫を加えてみる。思いがけず絶品になる時もあるけれど、絶望的な結果になることもある。一度、レシピに背き蕎麦粉百パーセントで焼いたクッキーは、京都銘菓八ツ橋の百倍の硬さで、文字通りまるっきり歯が立たないがっちがちの仕上がりになった。でも捨てるのは悔しいので、口に含んで酢昆布のように馴染ませてから、飲み込んだ。ベランダで二、三の野菜を育てて食べるというのも、同じく実験的な愉しさだ。誰にも急かされず、生命の維持にも直接関係のない、切羽つまらないこれらの活動は愉快である。
毎日ひとりっきりで食べる食事は、なんの映えもないし、地味だし、さみしい。こんな食事の時間がこの先、二、三十年も続くと思うと、気が遠くなるので考えないようにする。家族がいても必ずしも食事は団欒のひとときではないだろうし、自分の食べたくないものを頑張って作らなくてもいいのはありがたい、というふうに言い聞かせる。そして一方では自分の今の境遇が、とても気楽だという正直な気持ちも。今の私は、生きるために食べている。それを侘しいとは思わない。なぜなら、私は私の大好きなパンを買いに行くことができるのだから。
小林聡美(こばやし・さとみ)
1982年、スクリーンデビュー。以降、映画、ドラマ、舞台で活動。主な著書に『ワタシは最高にツイている』『散歩』『読まされ図書室』『聡乃学習』『わたしの、本のある日々』など。
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2024.03.30(土)
文=小林聡美
写真=佐藤 亘
ヘアメイク=福沢京子
スタイリング=藤谷のりこ