「その事情はなんだと訊いている」

「無関係の他人にぺらぺら話せるようなことじゃないわ」

 そして青年は、苛立ったように眉を上げはするものの、刀に手をかけて脅すような素振りも、力にものを言わせてもいいんだぞという空気を発することもなかった。不愉快そうに口を曲げ、「……なんだこの跳ねっかえり」と呟いている。

 その時、ふいにカラスが首を廻して青年のほうを向き、

「トーマよ、まあそうカリカリするな」

 と、宥めるように言った。

 奈緒は棒立ちになって固まった。声を上げることも、今度こそ腰が抜けることもなかったのは、もっけの幸いだ。人間というのは、あまりにも驚きすぎると、かえって反応ができなくなるものなのだろう。

「若いムスメゴに、そのような言い方は感心しないぞ。オマエはもう少し、女心を勉強せねばならんなあ」

 カラスが人間の男に、女心を学ぶ必要性を説いている。

 それは不思議な感覚だった。ギャアギャアというカラスの鳴き声はちゃんと聞こえるのに、その声と重なるようにして、「人の言葉」もまた耳に届くのだ。

 これは幻聴なのか。幻聴であってほしい。カラスが今にもため息をつきそうに小首を傾げているのも、片脚でトントンと青年の肩を叩くその仕草がやけに分別臭く見えるのも、きっと自分の気のせいだ。

 奈緒は必死にそう思い込むことで、狼狽を押し隠した。全身だけでなく表情も硬直しきっているが、まだあちらには気づかれていないらしい。ここが暗くてよかった。

 なんだか……なんだか、ここで「カラスが人の言葉を」と騒ぐと、非常に厄介なことになる気がする。

 青年はカラスから説教されて、わずかに唇を尖らせた。それまでの傲岸な態度が引っ込んで、なんとなく親に叱られてふてくされる子どものように見える。

「……こっちは急いでるんだ。何をしに森に入ったかだけを言え」

 台詞は相変わらず不愛想な命令調だが、先程よりは剣呑さが和らいだ。奈緒に対する気遣いというより、カラスの手前しょうがなく、という感じだった。

2024.05.18(土)