ドラマの序盤は、女性ばかりが苦悩していて、男性は、優秀だが女性に理解のない無礼な者たちか、猪爪家の父・直言(岡部たかし)、直道(上川周作)、居候の優三(仲野太賀)のように、理解はあるが、どこか頼りない人ばかりと極端で、この時代、男性にも尊敬に値する優秀な人格者もいたはず(この時代に生きてないからわからないけれど)という気持ちにもなる。そんなときにも『さよーなら またいつか!』である。
米津の歌詞の「わたし」は、女性の私ではなく、男女関係なく使用する「私」にも聞こえる。それが、女性の物語の主題歌を米津が担当した意味のようにも思えるのだ。
『虎に翼』は、既得権益を享受していない、主流のレールに乗れず割を食ってきた私たちの物語なのだ。タイトルバックにも、本編の町並みにも、いまの社会に居心地悪い思いをしているらしき者たちが描かれ、その姿に「あれは私だ」と仮託できる。
SNS時代の視聴者と「朝ドラ」
「わたくしごと」としてーーこれがいまの時代のキーワードだ。社会問題を人任せにしないで、わたくしごととして考え、コミットしていくことが求められている。ネットの普及によって、それがやりやすくなったはずだった。
その好例として、SNSでドラマの共感や情報を共有できるようになった。誰もがフラットな土俵で語り合える時代が来た。が、それには一長一短あって、ポジティブな言葉もネガティブな言葉も同じように発せられ広がる。それによって物語の本質が埋もれてしまうこともある。
筆者は2017年に『みんなの朝ドラ』(講談社現代新書)、2022年に『ネットと朝ドラ』(Real Sound Collection)を上梓したが、『みんなの~』では女性の自己実現を切り口に考えられた朝ドラが、『ネット~』を書いたときには、テーマ性などよりも、SNS映えするアイデアを消費して楽しむものに変化しているように感じ、それが作品を痩せ細らせるのではないかと危惧を覚えていた。
2024.05.13(月)
文=木俣 冬