執筆者、実業家として生きた吟香、「デロリ」を具現化した劉生

左:中島待乳「岸田吟香肖像写真」 明治初期 日本カメラ博物館蔵
右:岸田劉生「自画像」 1917(大正6)年6月23日 平塚市美術館蔵 ※展示替あり

 子の劉生が38歳、孫の麗子が48歳で没したのとは対照的に、72歳までまずまず長寿を保った吟香の生まれは天保4年(1833)。先に引き合いに出した高橋由一(1828年生まれ)とはほぼ同時代の生まれ育ちで、後に親交を結び、画業の後援も行っている。吟香自身は、眼病治療のために宣教師で医師のヘボン(ヘボン式ローマ字を創案)を訪ねたことを契機として、日本で初めての本格的な和英辞書の編纂に携わり、後に「東京日日新聞」(毎日新聞)の主筆を務め、従軍記から美術批評まで、幅広いテーマの記事を執筆した。また実業家として液体目薬を売り出したり、訓盲院(盲学校)を設立したことなどでも知られている。

落合芳幾「東京日日新聞」第736号 1874(明治7)年 豊田市郷土資料館蔵

 劉生はその四男として明治24年(1891)に生まれ、黒田清輝に師事。後期印象派から北方ルネサンスの影響を通過し、やがてたどりついた画境こそ、「デロリ」だった。語の初出は大正13年(1924)の『新演芸』誌。京都・南座での歌舞伎公演で味わった「下品の味」「卑近美」などを歌舞伎の醍醐味とし、日本の絵画とを類比しながら、岩佐又兵衛らによる近世風俗画について、「味の強く、太くたくましく、而もへんにデロリとした下品の美」と称揚する。それにしても、「デロリ」って、なんだ。

左:岸田劉生「静物(湯呑と茶碗と林檎三つ)」 1917(大正6)年8月31日 大阪新美術館建設準備室蔵
右:岸田劉生「石垣ある道(鵠沼風景)」 1921(大正10)年 平塚市美術館

 劉生曰く「現実的、卑近味、猥雑、濃厚、しつこさ、皮肉、淫蕩、戯け等の味」「多少変態的な快感、グロテスクなものに対する牽引、こはいものみたさの不思議なる心の欲望」。皮膚に貼り付いてくるような、そしてねっとりと糸を引くような湿った感覚を覚える言い回しだが、伝えんとするイメージははっきりしている。まただからこそ、その感覚を具体化したものとして、ただ愛らしいだけではない少女としての《麗子像》を描いたことも理解できる。

 劉生は文明開化と共にもたらされた、合理的に整理された近代西洋の美の規範から離れ、周縁の薄暗がりへおいやられていた、土俗的で野卑で奇怪ですらありながら、どうしようもなく魅力的なイメージを再発見したのだ。その上で、あらためて西洋の美に対峙しようとヨーロッパ旅行を計画していた劉生だったが、満州旅行からの帰国直後、38歳の若さで病に倒れてしまう。

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2014.03.01(土)
文=橋本麻里