気づけば、子供を公園で遊ばせているあいだ、ウォークマンでシャンソンを聴き、譜面を見ながら声を出して練習を繰り返すようになっていた。やがて、タイミングよく以前歌っていたシャンソン喫茶から、また歌ってみませんかと声をかけられ、歌手として再スタートを切った。のちには、結婚の際、父・威馬雄から「あの子から歌を取らないでくれ」と言われていた和田のプロデュースによりアルバム『私の旅』(2006年)もリリースしている。

料理だけは手を抜かなかった理由

 ただ、料理だけは手を抜かなかった。それというのも、結婚したとき、和田が「死ぬまでにあと何千回、ご飯が食べられるかなあ」と言うのを聞き、「あっ、この人、食べることに命かかってる」と思ったからだ。以来、家族だけでなく、和田が招く客たちのためにも料理に腕を振るううち、それが仕事へとつながっていく。夫の友人のひとりであった作曲家の八木正生が、料理雑誌のリレーエッセイで自分の次の書き手として平野を指名したのだ。文章なんて書けないと断りかけたが、八木から「いつも僕たちに食べさせてくれる手料理について書いてくれればいいんだよ」と押し切られてしまう。

 ところがこのエッセイが好評で、これをきっかけにほかの雑誌からも料理紹介の依頼が来るようになった。前出の『きょうの料理』にもこの流れで、まず料理人ではない著名人が自慢の料理を紹介するコーナーに出演し、その後、講師として登場することになる。

 平野には、結婚して新居を構えたときに父から贈られた色紙がある。そこには、《風つよければ/神さまは/靴のかかとに/棲み給う》という父の詩が書かれていた。当初、娘の彼女にはその意味がよくわからなかったが、父が亡くなったあとで改めて読んでみたところ、《ああ、そうか、嫁いだ私に苦しい出来事が突風のように襲いかかっても、何かが“かかと”を支えて倒れないようにしてるから何事も恐れてはいけない、と解釈できたんです》という(『週刊ポスト』2007年4月13日号)。とはいえ、彼女はこんなふうにも語っている。

2024.04.04(木)
文=近藤正高