4日目は不在だったが…
4日目は和田がフランク・シナトラのコンサートを観るため渡米してしまったので不在だったが、彼の友人である俳優の渥美清やタレントの永六輔などが来宅し、こんなインテリで面白い人たちと仲がいいんだとまた和田を尊敬した。
それから1週間ほどして帰国した和田からプロポーズを受ける。彼は結婚を前に初めて平野の家を訪ねると、父の威馬雄から色紙に自分たち夫婦の似顔絵を描くよう言われ、緊張しながらも描き上げた。それで結婚を許してもらったものの、父は娘の結婚時期は翌年の6月頃と決めていたらしい。その時点で半年も先だったので、母はそのあいだに娘の気が変わってしまうかもしれないと考え、翌朝、「レミちゃん、いいから行ってらっしゃい」と送り出した。こうしてそのまま結婚生活が始まる。1972年の暮れのことであった。
「大変なことになる…」結婚後に悟ったこと
それまで歌手やタレントの仕事が好きだった平野だが、結婚してからは仕事なんてどうでもよくなった。夫とは一心同体という気持ちが強く、自分の世界は和田さんだけと思い込んでいた。だが、ある日、和田が近所にある仕事場に出かけるとき、その顔つきが完全に仕事の顔になっているのを見て、彼が自分だけの世界をきっちり持っていることに気づく。これをきっかけに平野は「私も自分の世界を持たないと、大変なことになる……」と考えた。
《じゃあ、私の世界っていったい何? と考えたとき、主婦であるということが、その中心にあったのね。それなら、主婦である私の世界を、自分なりにちゃんと作り上げよう、そう考えたの。それからの私の切り替えは速かったわよ》(『婦人公論』2002年3月7日号)
そこでまず、彼女は子供を産み、一生懸命育てようと決める。そうして長男を産んだのだが、まだ口も聞けない息子をあやしていると、「いまは手がかかるこの子も、いずれ私の手を必要としなくなる。そのとき取り残されるのはいやだな」とふと思った。そこからまた考えて、しばらく休んでいたシャンソンを再開しようと新たな目標を立てる。
2024.04.04(木)
文=近藤正高