威馬雄が来る者は拒まない人だったため、平野の育った家には、面倒を見ていたミックス(当時は「混血児」と呼ばれていた)の子供たちのほか、父の詩人仲間、芸術家や大学教授、医師、芸人、お寺の住職など多くの人が始終出入りしていた。母はそんな大勢の人たちの世話に毎日大忙しで、自然と平野も食事の支度を手伝うようになる。《今の私がお料理を仕事にしているのも、あの頃のお手伝いが役立っている。「安く、手早く、おいしく」というモットーも母から受けついだものだ》と、のちに彼女は語っている(『文藝春秋』2006年5月号)。

進学校を辞め、シャンソンの道へ

 勉強はずっと苦手だったが、中学時代、兄の個人教授のおかげで、都内きっての進学校・上野高校に入学する。しかし、すぐに授業についていけなくなる。ある日、ついに思い立って父に学校を辞めたくなったと伝えると、父はすぐに許してくれたうえ、「いい学校がある」と言って御茶ノ水の文化学院を紹介してくれた。

 文化学院に入り直すと、もともと好きだった歌を習いたいと思い、まず歌謡教室に入ったが、歌詞が汚いのに嫌気がさしてしまう。そこでシャンソンに路線変更し、父が紹介してくれた先生について習い始めた。やがてバンド演奏をバックに歌いたくなり、日航ホテルのミュージックサロンのオーディションを受けて合格し、プロの歌手として活動を始める。

 1970年にはコロムビアレコードからスカウトされ、レコードデビューもした。だが、同時に芸能事務所に入ると、ポルノ映画に出演させられそうになったのを拒否したため、社長が怒って、そのあとのスケジュールもすべて白紙にされてしまう。そこへTBSラジオの平日の帯番組『それ行け!歌謡曲』への出演依頼が舞い込む。

人違いで決まった番組出演

 局に出かけると、ディレクターが不思議そうな顔で「混血児ですか」と訊いてきた。平野も4分の1は外国人の血が入っているので、そうだと答えると、続けてコロムビアレコードから4月にデビューした新人であるかどうか確認された。彼女はこれにもそうだと答えたが、先方は「じゃやっぱりそうなんだ」と言いつつどうも腑に落ちない顔であった。

2024.04.04(木)
文=近藤正高