ちなみにこの、興味を持った存在にまるごと憑依する聞き書きの系譜に、『人形師天狗屋久吉』や『日露の戦聞書』(いずれも一九四三、文體社)といった傑作があり、また男の一人称語りによる生と性の懺悔録(ざんげろく)としては、昭和文学の不朽の名作と呼ぶに相応しい『おはん』(一九五七、中央公論社)が生み出されていく。

「『私の文学的回想記』より」の「『色ざんげ』の魅力」には、東郷青児の「君はこの話を小説にする積もりで、そのために、俺と一緒にいたのだな」という科白が記されているが、東郷はおそらくこの作品から、取材などというレベルではない、自身の存在そのものを写し取られたような凄みを感得したに違いないのである。

 かつて丸谷才一は『日本の文学46 宇野千代 岡本かの子』(一九六九、中央公論社)「解説」において『人形師天狗屋久吉』や『日露の戦聞書』、『色ざんげ』、『おはん』を、語り手/男と聞き手/女との関係から編み出された宇野千代独自の誘惑の言説と看破したが、興味深いのは、宇野千代が四十二歳から六十七歳にかけて、つまりは最も長く結婚生活を営み、出版社の経営(破産と多額の借金返済を含む)や執筆活動の恊働者(きょうどうしゃ)であった北原武夫との日々を書き残そうとしたとき、そこに生み出されたのは、いまだ傷を抱えながらもそれを「書く」ことで形象化しようと試みる、静謐(せいひつ)な女の語り手による『刺す』(一九六六、新潮社)だったことである。『刺す』を読めば、語る/聴くことがこの作家にとって誘惑や挑発であった季節は終り、生きて在ることの証しそのものとなったことがわかる。

 こうした分岐点を経て、八十六歳を迎えた宇野千代は回想録『生きて行く私』(一九八三、毎日新聞社)を刊行し、ベストセラーになる。瀬戸内寂聴の『わたしの宇野千代』(一九九六、中央公論社)によれば、宇野千代自身は新聞連載中から大きな反響があったこの作品を、読者にサービスしすぎたきらいがあると捉えてもいたようであるが、「花咲婆さんになりたい」に集約されるように、「自分がそんなに明るい気持ちで、自分の気持ちをしゃべれたことが、やはり幸福であった」という境地に到達して行く。宇野千代が愛した男たちのすべて、彼女を鍛え、支えた昭和文壇の仲間たちのほとんどが冥界に旅立った後、自身を語ることは彼等と生きた時代を語り継ぐことに他ならなかったし、八十代半ばに語り直される「宇野千代」は懺悔する主体ではなく、いかなるときも眼を見開き、その歩みを止めなかった希代の狂言回しとして、文学の枠を超えた読者を魅了したのである。

2024.03.13(水)
文=金井 景子(早稲田大学教授)