熱狂的なファンが多かったことで知られるキャンディーズだが、1973年のレコードデビュー直後は、それほど注目される存在とは言えなかった。
スーに代わり、ランがセンターに回った5作目のシングル『年下の男の子』(1975年2月)がヒットし、翌年『春一番』がオリコン3位を記録。このあたりから、ファンと一体になった「キャンディーズ現象」が加速し始める。
「当時、ライブ会場に来ていたのは大学生や高校生の男性ファンがほとんどで、キャンディーズのメンバーより上の世代はほとんどいなかったですね。田舎の高校生だった僕からすると、6歳年上のランは“都会のかっこいいお姉さん”でしたが、当時の時代状況を思い返すと『社会人になってまでアイドル歌手に熱中しているのは恥ずかしい話』といった空気感があったように思いますね」(石黒氏)
全キャン連の会員数は「僕は“300万人”と言っています(笑)」
グループの人気が高まるにつれ、渡辺プロ運営のファンクラブとは別に、ボトムアップの自主的なファン組織が誕生。1975年に蔵前国技館で開催された「10000人カーニバルvol.1」の実行委員だった関東のキャンディーズファンの呼びかけで「全国大学キャンディーズ連盟」が始動。その後「大学」の呼称が外れ、「全国キャンディーズ連盟」となる。
「僕は地元の『北陸支部』に所属していましたが、全キャン連は商業的に管理されている組織ではなかったため、正確な会員数や規模などは不明です。しかし、解散時に5万人のファンが後楽園球場に実際に集まったわけですから、30万人くらいは会員と呼ばれる人がいたとしても、まったくおかしくない。ちなみに僕は問われた際は“会員数300万人”と言っています(笑)」(石黒氏)
「全キャン連」の名前がいまも伝説的に語り継がれている理由のひとつに、まだ携帯やネットがなかった時代、横断的な情報共有によって統一された応援スタイルを完成させ、それを緻密に実行したという画期性がある。
2024.02.18(日)
文=欠端大林