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ダウンな気持ちになるのも、小説のいいところ

――人にそれだけ思いを寄せられるのは、井上さんがいろんな人と出会ってきたからなのでしょうか。

井上 そういうことでもないんですよね。例えば、車の窓から、自転車で走る赤い服を着た男の子を見かける。どういう家に住んでんだろう。なんであの子、あんなに一生懸命に自転車を漕いでるんだろう。そういうところから着想したりしますね。

 あと、車で聞くラジオ。パーソナリティーとリスナーとのやりとりとか。とくに面白いとも思わずに聞いていても、いつまでも覚えている、ということがあって。「なんで私はあの話を覚えていたんだろう」と考え始めて小説になっていくんです。

 出来事そのものが気になることもあれば、言葉の使い方が気になることもある。そういう耳に残ったものは、アプリの「Evernote」に書き留めています。

――創作の原点が詰まった、貴重なメモなんですね。

井上 なくしたら困っちゃいますね。短編を書く際に何にも思いつかない時やタイトルに良い言葉を探す時はメモを振り返っています。

“黒荒野”作品から“白荒野”作品へ

――昨今は動画視聴が増え、子どもの中には小説や漫画を読まない子もいると聞きます。

井上 だんだん読まれなくなっていくんだろうな、とは思いますね。「本は速読」「映画は早回し」で見る人が増えているそうですし、過程じゃなくて結果が必要なんだろうなと思います。そういう読み方が増えているのであれば、パッと読んだ時に印象に残る小説が増えていくんじゃないでしょうか。小説も映画も細部が面白いので、じっくりと観てほしいですけどね。やれる限りは、自分の小説を書いていきたいと思っています。

――最後に、短編集『錠剤F』と『ホットプレートと震度四』について読者にメッセージをいただけますか。

井上 『錠剤F』は読んだら暗い気持ちになるかもしれません。でも、ダウンな気持ちになるのも、小説のいいところで面白さだと思うんですよね。そういう気持ちになった上で、温かな物語が詰まった『ホットプレートと震度四』を読んでほしいです。そこからぜひまた『錠剤F』に戻って、作品を読み返してみてください。

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井上荒野(いのうえ・あれの)

1961年東京都生まれ。1989年同人誌に掲載する予定だった小説『わたしのヌレエフ』をフェミナ賞に応募し、受賞。2004年『潤一』で島清恋愛文学賞、2008年『切羽へ』で直木賞、2011年『そこへ行くな』で中央公論文芸賞、2016年『赤へ』で柴田錬三郎賞、2018年『その話は今日はやめておきましょう』で織田作之助賞を受賞。著書に小説家の父について綴った『ひどい感じ 父・井上光晴』や、父と母、瀬戸内寂聴をモデルに描いた小説『あちらにいる鬼』なども。

錠剤F

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ホットプレートと震度四

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2024.02.12(月)
文=ゆきどっぐ
撮影=山元茂樹/文藝春秋